中島哲学の背骨といえば何といっても時間論である。中島自我論も中島自由論も、中島時間論なくしては語れない。本書は「過去中心主義」をキーワードに、過去中心主義者を自認する中島がその時間論を総括した内容になっている。
中島の時間論は(というより中島哲学全体が)極めて経験に忠実であり、これは嘘が嫌いな中島の性向によるものであろう。過去中心主義というキーワードも、われわれは過去しか知らないという中島の実感もしくは信念に基づくものであるに違いない。
なるほどわれわれは過去しか知らない。しかし無色透明な過去などない。過去には必ず何らかの感情がまとわりついている。というより感情が、われわれに記憶すなわち過去をもたらす。その感情とは例えば後悔であったり責任追及であったりするだろう。
だが後悔や責任追及をもたらすのは未来ではないだろうか。未来に行き詰ったときに後悔が、罰したいという欲望に対して責任追及が頭をもたげる。過去における自由という虚構もそこから生み出される。その点において過去とは未来によって逆照射される制作物に過ぎないのではないか。
未来はない、と中島は言う。だがその未来とは、われわれが認識可能な時間における未来であろう。われわれがその中を生きているところの時間においては、すなわち時間概念のレベルを一段繰り上げれば、未来中心主義の可能性も開けてくるのではあるまいか。その可能性については中島自身が後著『「死」を哲学する』において言及している。
『時間を哲学する』で語られていた内容とほとんど変わらない本書ではあるが、精緻な議論には哲学者中島の真摯な態度が感じられる。エッセイスト中島ではない正真正銘の哲学者中島を再確認できる好著である。