「私」が、私秘性により、内に心・意識(そして自我・脳概念)という鬼子を制作した。
同時に、外に風景(世界)の私有化を図り風景の強制的内在化が始まった。世界の対象化(主客の誕生)である。
この時、感覚的性質(色・味・匂い等)は剥ぎ取られ心・意識に帰属させられる。
そして、世界には幾何学的性質と運動のみが残された。(自然科学的世界像)
大森荘蔵は以上のような主観・客観そして因果的理解を倒錯であるとする。
この「因果構図」に替わるものとして「重ね描き」構図を考え、そこから必然的に無脳論も導き出される。
「重ね描き」構図は、自我中心主義の解毒剤として爽快ではあるが、人間中心主義の限界は免れ得ない。
著者が晩年暗黒を覗いたという意味のことを語ったということを読んだ記憶があるがそういうものだろう。
ブッダはパーリ語でタタター、つまり修業の結果としての「あるがまま」を説いた。
それは、私秘性以前の風光を指しているに違いない。「ただ」の世界であり、いわば「縁起」構図である。
ここまでいかないと平安はないだろう。