「そこで声と図像の、音声とイメージの、聴覚と視覚の一致や結合を解体し、再構成するという果てしない仕事が試みられることになる。たとえば映画史とは、まさにそのような果てしない仕事の場所であったと考えられないか(P.181)」という著者の意見は理解できるが、そこから展開される<時間イメージ>の論は正直理解することは難しい。例えばバザンを引用してブレッソンの『田舎司祭の日記』が論じられている(P.242-P.247)。私はこの映画を様々な‘イメージ’に裏切られ続けて体調を崩した主人公が最後にたどり着いたのが自分を最後まで裏切らなかった十字架のイメージだったと単純に解釈してしまったのだが、本書によるともっと深い意味があるようなのだ。しかし私には著者の説明が上手く理解できなかった。もしかしたら敢えて理解を拒絶することでさらに読者に対して考察を要求し、理論を深めていこうとするアプローチなのかもしれない。因って‘真の映画’とはもはや私たちが一般的にイメージする映画ではないのであろう。