「斜陽」という小説を、好きで好きでずっと読み込んできて、そこには太宰治の終戦後の文学的な決意の全てが描かれていると思っていた。太田静子という実在のモデルがいて、「かず子」そのものの生き方をしていたのは知っていたし、近年の文学研究によって、静子の日記からの引用はかなりの部分にあたることも知っていた。しかし、それはあくまでも太宰サイドからの見方だったわけで……
娘・太田治子が新たな決意のもとに執筆した本書を読むと、静子が生身の女性であり、太宰治が生身の男性であるという事実に愕然とする。そして作品には美しい終わりがあるが、太宰の死後も静子は娘とともに必死に生き続けたという当たり前の事実に思い至らなかった自分の幼さにも。
ふたりの往復書簡や、静子への聞き取りから立ちのぼるリアルすぎるやりとりは、「恋と革命」どころか、むしろずる賢い中年作家が、お嬢さんをだまし陥れていく光景で、今となっては中年読者の自分が、読んでいていたたまれない思いにさせられる。しかもこの男、ただずるいだけじゃなくて、弱いし嫉妬深いし図々しいしその上意地悪。読者の私が「そんな『斜陽』を心酔しきって読んでました静子さんごめんなさいっ」と恥じ入るくらいだから、「斜陽の娘」として育った作者の心中いかばかりかと胸が痛む。
しかし、この本がすごいのは、生々しいふたりの出会いと別れが、「斜陽」という永遠の小説になった文学の強さを、作者自身がどう考えたか。最後の頁を読み、思わず涙が零れてしまった。「斜陽の娘」とは、単にモデルの娘ということでなく、厳しい運命を受け入れて育ち、真に「斜陽」の魂を持つに至った娘、ということなのだ。