「日露戦争、資金調達の戦い」は大変興味深く読ませていただいた。これは今までにない視点で書かれた素晴らしい本である。掛け値なしで五つ星の評価だと思う。
著者の板谷敏彦氏は、以前からPorco Rosso Financial Weblog(紅豚金融ブログ+本+酒)という名のブログを匿名で投稿されていた方である。私のお気に入りの宮崎駿アニメ「紅の豚(=疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のためのマンガ映画)」を連想させる名であったためにこのブログの世界に迷い込んだのがフォローするきっかけだった。これが非常に面白い。そして2010年の春ごろから、扱われるテーマが金融市場一般のものから高橋是清と深井英五に関するものへ、そして日露戦争をファイナンス面から検証していくものに絞られ、2010年末〜2011年初にかけては、「金融市場と日露戦争 外債募集談の真実」という表題で、同コンテンツが連載された。毎回のブログ更新を心待ちにしながら、いったいこの投稿者はどのような素性の人だろうか、と想像をたくましくしたことが懐かしく思い出される。
この「紅豚金融ブログ」の存在を知人や親戚の者に紹介した際の拙文を紹介すると:『記述の内容から言えることは、 (i) 長年金融(証券)業界の第一線で豊富な経験を積み、国際的な金融取引の実態、商売の機微やツボを押さえている、(ii) マクロ経済や金融について深い知識をもっている、(iii) 大変な読書家で思想的にはリベラルな国際派、(iv) 歴史好きの学者肌の方、というところでしょうか。日露戦争時の高橋是清による外債発行を、これほど詳細にしかも素人にも分かりやすい読み物として紹介した文章は、他に例がないと思われます』というものだった。
今回そのコンテンツが一冊の単行本として新潮選書から世に出されたのは大変喜ばしいことである。そして、謎の人物であった紅豚(ポルコ・ロッソ)氏が板谷敏彦氏であることが判明した。プロフィールを見てなるほど納得。本書は、国際金融市場において様々な利害と力関係がぶつかり合う中でディールを纏めていくことの難しさを身をもって体験した人のみが持ち得る一貫透徹した視点と尺度をもって史実に迫っている。
陸戦や海戦の場合はどちらか一方が全滅でもしない限り、両サイドに証人があって、その勝敗は客観的事実に基づいた歴史として残される。しかし、金融、特に100年前の欧米の起債市場では、一握りの有力なプレーヤー達(シフ、カッセル、レベルストーク、キャメロン、ロスチャイルド、ウォーバーグ等)によって交渉が極秘裡に進められ、ディール成立後もその経緯が公表されることはまずなかった。日露戦争時の外債募集に関しては、高橋是清や深井英五の残した文章で、あらましその経緯は後の人の知るところとなったが、その決定的な欠陥として指摘されているのは、彼らが日本国を代表する立場にあったため、相手側欧米バンカーの内部情報から完全にシャットアウトされていたことである、という点である。従って、日本側の進める交渉に当時いかなる市場ダイナミズムが働いていたのか、その交渉が成功であったのか不成功であったのかを、交渉相手の側(金を貸す側)にも立って、客観的に検証し記述するとことは非常に困難なことであったはずである。舞台となったロンドン、パリ、ニューヨーク、ハンブルクの当時の金融機関も、今やその多くがその後の企業統廃合で存在しない。日本側の横浜正金銀行にしても、今や三菱東京UFJ銀行の名前にその前身の「東京」の名が入るのみとなっている。どれだけの議事録、日記、交換電文や書簡類の原文書がそれぞれの承継会社のアーカイブスに引き継がれているか筆者は知らないが、その調査研究には気の遠くなるような時間がかかることだけは間違いない。
著者の板谷氏はこの本を書くために膨大な内外の資料を、時には一次史料まで遡って渉猟している。巻末の参考文献リストには本格的な学術書が多く含まれている。これらの書物にはそれこそ何十年というそれぞれ優れた研究者の調査研究の成果が詰まっている。しかし残念ながら、一般の読者には、これらアカデミックな書籍は敷居が高く、文章も難解で、まず手に取ろうという気が起こらない。また多くは発行部数が限られるため非常に高価である。例えば、板谷氏が最も参考にしたという藤村欣市郎著「高橋是清と国際金融 上・下」1992年初版は、\15,000.-、いまや古書として何点か市場に出ているだけである。
その意味で、本書の成し遂げた功績は非常に大きいと言わねばならない。私は特に次の三点を挙げたい。
1) これほどまで内容の濃いしっかりした良書を1700円で売り出したこと
2) 日露戦争時の外債募集が交渉されたコンテクスト(=金融市場の動向と論理)をグラフやチャートを用いて素人にも理解できるよう"見える化"したこと
3) 戦後の長い平和で脳細胞が豆腐になった現代日本人に対するメッセージとして、『金融とは、借りる側の要求に対して貸す側の事情と計算が折り合って始めて実現する』という最も初歩的かつ根本的な真理を伝えたこと
この本が多くの人々に読まれることを心から願うと共に、板谷氏の今後のますますの活躍に期待したい。