橋本以行元艦長は戦後海上自衛隊の潜水艦第一号建造に当たり、試運転艦長として後進の指導のために神戸の造船所に着任した。
私は時同じくして、造船工学を卒業して潜水艦設計に魅力を感じて就職し、橋本以行さんとの付き合いが始まった。
橋本さんの戦中実話とそこから得た教訓を聞くのが大好きだった。何時間聞いていても全然退屈も、飽きもしなかった。
実際に試運転中、潜望鏡深度で潜行テスト中に、潜望鏡を見ていた橋本艦長が、側に居た私に、「丁度あの距離だった」と云って潜望鏡を替わってくれた。レンズに目を当てると、正面に貨物船が見えた。その時、「インデアナポリスは丁度あの位の距離と角度だった」と云ってくれた。もの凄く実感があった。橋本艦長の脳裏には強烈に焼き付いていたと思っています。
泳いでいる多数の米海軍乗組員が潜望鏡から見えて浮上して救出しようと考えたが、米駆逐艦の気配を感じて潜行して素早く遠くに逃げたそうでした。
太平洋戦で生き残った日本潜水艦は僅かだった。その理由が橋本艦長の話を聞いていて分かった。
米駆逐艦の探索機性能が向上して、見つかれば艦も乗組員の命も無いと云う信条で行動していたようです。
その中で日本にとってもの凄く大きな功績があります。それは残り二発の原爆を海底の藻屑に葬ったことです。
この二発は当時フィリッピンにいた米連合艦隊司令長官マッカーサがフィリピンの基地から発信させたいので転送する様に指令したそうな。
もし鎮めていなかったら、8月15日終戦までに広島・長崎に続く第三、第四の都市に原爆が落ちて、更に多くの日本民間人が死傷していたと思います。この二つの都市がどこであったか、マッカーサは知っていたはずだが、今まで我々には知らされていない。
橋本以行さんは約20万人程の日本人の命を救った事になりますが、この事を殆どの日本人が知っていない事が残念です。
伊号58帰投せり―日本潜水艦隊血戦秘録 (1952年)