2002年に出版された『日本語に主語はいらない』(講談社メチエ)を読んだとき、よくぞ言っていただいたと感謝したくなったことを覚えている。
本書は、具体的にはバイリンガルの日本人作家・水村美苗の『日本語が亡びるとき』(筑摩書房、2008)への反論を意図して執筆したと、著者は「はじめに」で述べている。私自身、水村美苗の本を読んだとき非常に強い違和感を覚えたので、またとない援軍が現れたものだと思って、著者の「蛮勇」には大いに期待して本書を手に取った。
ざっと読んでみての感想は、「満足半分」に「期待はずれ半分」である。
「満足半分」というのは、著者の専門である、カナダ人への日本語教育実践から発見した日本語の特性から、日本語はけっして亡びないことを論証していることだ。これについては大筋で賛成である。著者の理論が正しいか正しくないかは、言語学の専門家どうしで論戦しあえばいい。
「期待はずれ半分」といったのは、本の半分が本論とはあまり関係ない、宮部みゆきと中島みゆきの話で占められているからだ。しかも、言語学的な分析ではなく、このふたりの「みゆき」が表現する日本人の心性について語っているだけであって、だから「日本語は亡びない」という論旨とは、結びつきが弱すぎるのである。
結論としては、水村美苗の『日本語が亡びるとき』への違和感を表明した本とはなっているが、分量を半分にして、言語社会学的な話で残り半分を書くべきではなかったのか、というのが私の感想である。
とまあ、ここまで辛口の評価をしてきたが、水村美苗の『日本語が亡びるとき』への反論がでてきたことは、たいへん喜ばしい。著者がふと漏らしているように、水村美苗には12歳の時に、自分の意思ではなく有無をいわさず米国に連れて行かれたときに経験したトラウマがあるのだろう。
日本語を実用的に使っているのは、ごくごく少数のインテリ作家だけでなく、圧倒的多数の一般ピープルだからだ。どう考えても、日常生活で英語を使うとはとてもは思えない圧倒的な日本人にとって、「日本語が亡びる」などという危機意識は、はっきりいって無縁の発想だろう。
ほんとうに亡びる可能性が高いのは、話者が激減している、いわゆる「危機言語」である。人口が減少しているといっても、1億人を切るのにいったい何年かかるというのだ。日本語が「危機言語」であるかどうかは、この本がある程度まで解答している。
興味のある人は、半分は読むに値するので、目を通したらいいとはいっておこう。