この本で述べられているのは以下の通り。
日本語と、英語などの西欧語や中国語とは本質的に翻訳不可能であり、それは、日本語が語り手の今・ここ、を叙述する言語であり、西欧語・中国語などで可能な客観的視点で語れない仕組みになっていること、日本語が西欧語・中国語と互換性がないのは語のレベルに留まらず文法・統語構造自体もそうであること、日本語において音声と言葉の結びつきは恣意的ではなく、日本語の動詞や形容詞の多くは音声のイメージに基づく擬声語や擬態語が原型でありそれらが組み合わさって語として構成されていること(日本語をソシュール説の例外とみなす)、それも語り手の今・ここ基づく叙述であること、助動詞「た」は過去時制を意味するのではない、日本語はあくまでも語り手あっての言語であること、「言語の性質によって造られる文化が制約される」(サピア=ウォーフの仮説)により日本文化は日本語の性質に深く根ざしていること、日本語の文学作品は筆者自身が語っているという視点を抜きに解釈すると日本人が読んでも誤読してしまうこと、文学作品はどう読んでも構わないのだというポストモダニズム的解釈法への苦言、等。
この本の、前半では日本語動詞・形容詞・助動詞の成り立ちの分析により日本語が語り手の言語であることを明らかにし、後半は日本語が語り手の言語であるとした前提での文学作品(古典;紫式部、能、浄瑠璃 近代文学;夏目漱石、中島敦)の解釈とそれによる日本文化論からなっています。
前半が序論で、後半が本論といえるでしょう。
読者の興味の持ち方にもよりますが、日本語そのものについての知見のためにこの本を手にした自分は、前半の言葉の分析の部分は興味深く読めましたが後半はちょっと平板に感じてしまいました。
この著者の基本的な考えは、日本語は非論理的でダメだとか英語を国語にしろとかいうよくある話ではなく、日本語、西欧語、適材適所で用いていけばよいということのようです。
著者は1936年生まれ、アメリカで長年日本語や日本文学の教育にたずさわってきた方です。