本書全体を通じて,文字と音韻,文字と言語,言語と民族・国家・地域を混同した記述が目につくのが気になります。
広く合意が得られているわけではなさそうなことが断定調で書かれています。
たとえば,膠着語は借用語率が非常に高いとし,そうした膠着語が結果的に文明と文明をつなぐ架け橋の役割を果たしてきた,としています(序章)。借用語の多さは,文法構造よりも歴史的事情(征服など)によるところが大きいのではないでしょうか。ペルシア語は屈折語ですが,極めて大量のアラビア語を含んでいます。本書のテーマである日本語は,文明の架け橋になったでしょうか? フィンランド語は?
「キ」の甲類/乙類の違いを「音韻の違い」と書いておきながら,帰化人には聞き分けられたが,日本語ネイティブにはどうでもよかった(第六章),というのは矛盾しているようです。(ネイティブに分かるオトの違いが音韻の違いなので)
肝心の仮名の誕生の説明でも,伝来した漢字からどうにかして表音文字を作ろうとして,平仮名と片仮名が誕生したかのように書かれていますが(第七章),漢字の形をそのまま利用した表音文字である真仮名の段階がすっぽり抜けています。(第三章では万葉仮名が説明されているのに)
サンスクリット語の子音から日本語に存在しない子音を除いたものが「あまりにも日本語の発音とは違いすぎている」(第十章)というのも意味不明です。
どうも,専門外の分野の著作に手を出してしまった本という印象が拭えません。
終章で「〈いろは〉と〈アイウエオ〉の両輪によって情緒と論理の言語的バランスをとることができるこのような仕組みの言語は,日本語以外にはないだろう」とし,「我々はそうした素晴らしい日本語の世界に生きているのである」と結んでいるのは,ある種の人々を喜ばせるでしょうが,私には理解できませんでした。