古代史の「通説」を疑っている項目はいろいろある。「白村江」敗北の原因ー本当に唐の軍事力の前に屈したのか?「蘇我・物部戦争」は宗教戦争だったのか。倭王の系譜と江上波夫の「騎馬民族渡来説」への疑問などが論じられているが、ここでは「卑弥呼は個人名にあらず」と力説している中心部分をまとめてみよう。
卑弥呼というのは個人を識別する記号〈個人名〉ではなく、特定の女性が就任する地位や身分の呼称と考えるのが妥当だという。これを著者は卑弥呼職と呼んでいる。中国人が『魏志』倭人伝で誤解を冒しているとみている。邪馬台国に卑弥呼という女王がいたであろうというロマンを信じて疑わない。これは学問とは全く違う次元のものであるとも言う。この頃三世紀の日本列島はすでに階級社会に入っており、そのような複雑な社会を統治する王や首長自身がなおシャーマンをつとめていたというのは、考えがたいことである。彼女は倭国の傍らにあって、あくまでも「鬼道」と呼ばれる祭儀にのみ奉仕する巫女だったとみなければならない。この卑弥呼職は、かつて前方後円形の墳丘墓とセットで創造されたものであったから、それがなくなっていまうと、卑弥呼職もなくなったと思われる。
さて、帝紀・旧辞と総称される書物が、いつ作られたかに関しては、津田左右吉の欽明朝前後という学説が今日の定説になっているが、その根拠はなく、認められないと言う。著者は律令国家建設の起点となった7世紀の半ば、舒明・皇極朝時に求めることができるという自説を強調している。(雅)