あらためてこの「古典」を読み直してみた。いろいろとひっかっかる部分もあるが、やはり名作だろうと思う。「日本人」は「無宗教」かどうか、というのは、実はそれほど重要ではなく、むしろ、なんで私たちは「宗教」(狭い意味での・「創唱宗教」)を生理的に避けたがるのか、という謎を説くためのヒントを得るためにこそ、本書は読まれるべきだ。
著者は、古代から近世にわたる日本の「宗教」の歴史をおおまかに、しかし本質をスマートにつかんで説明し、ついで、近代の国家政治が整えた「宗教」に対する「日本人」の態度の、構造的なゆがみの成立過程を解読し、そして、この国の「日常」の強さが、どれだけ私たちの意識や感覚をソフトにしばりつけているのか、を解明していく。こうなってきたから、言葉の上でも実践の上でも、「宗教」は「私たち」とは「別」のもの、一般には必要だが、「自分」には「不必要」なもの、いや、それだけでなく、「あやし」かったり「恐」かったりするものとして、出来上がってきたのだ、と著者は、間違いなく「宗教」に好意的な論者として、ほとんど嘆いている。
でも、「日常」と、あとは軽い「年中行事」や「葬式仏教」があれば、それでいいではないか、と問われれば、それは全く正しい。なぜ「宗教」の「大切さ」みたいなのを、あえていうのか。「教養」を求める人や、すでに「宗教」に生きている誠実な人に対してでなければ、自明性はあまりない。だから、本書の最終章にあるような、こんな「宗教」への入り方も、日本にはあるんですよ、としみじみ語る文章は、それ自体としては優れているが、やはり「浮いて」いるように感じられる。「布教」かな、と失礼だが嫌な気分になるのである。そしてそう感じている「自分」の、「宗教」への忌避感に自覚的になって、ああ、やはりこの価値からは自由になれない、という結論に至る。