本書は、前半が「身体運動意味論」という著者がやっている言語学分野の紹介に当てられ、後半がタイトルにもなっている脳と主語の有無との関わりの考察に当てられている。
新しい学問を紹介する本という観点からはわかりやすく解説している。人間は言葉の意味を理解するとき、脳内では実際にそれを経験するのと類似した反応が起こるのだという。つまり、言葉の理解には「身体性」があるのだと考えられる。そこに踏みこむには「イメージ」の考察が大切になる。現在、日本やアメリカで隆盛にある認知言語学の延長上にあり、ちょうど認知言語学でやっていることに実験を加えたような分野だと考えればいいのだろう。さらに、著者はこの分野が認知言語学(本文では認知意味論となっているが、おそらく言いたかったのは認知言語学のほうではないだろうか)と生成文法とを融合したものになる可能性をほのめかす。これからの学問に携わる者であれば、それくらいの志の高さは持つべきだろう。
ただ、議論があまりにも荒く感じる。例に出される基本的な言語学の知識に著者なりのざっくりとした「あまりに割り切った理解」が気になる。また、脳のある部分が活性化したことで大胆な仮説を立てるのだが、脳の役割がそれほど単純明快に場所で割り切れるものか、不安になった。この学問にも大きな存在意義があると思うが、著者のような白黒はっきりしたようなやり方で本当に言語の真理に近づけるのか。
その流れの中、後半で「脳の使い方の特徴から、母音重視の言語(日本語やポリネシアン地域の言語)では主語や人称代名詞を省略する傾向がある」という大胆な仮説が出される。前半ではさんざん音と意味のことを論じ、構造・文法についてさほど重視しなかったのに、いきなり音と構造を比較するのはどうかと感じた。被験者の数もあまりに少ない気がする。また、著者は「脳のこの部分とこの部分が使われるから、こうこうだと考えられる」といった説明をよくするのだが、その部分が本当にそんな単一に特化した機能をしているのか。あまりに議論の立て方が荒いのではないのか。
ここで議論されるべきは、音と構造の比較である。たとえば日英比較で言えば、英語はSVO言語で子音重視、日本語はSOV言語で母音重視であるなら、それらの構造の違いから母音の軽重の違いは論じられうるのではないだろうか。母音の多さと主語のなさとの関係を脳の使い方を(しかも、サンプルの少ない部分活性化のみで)説明できる根拠が希薄だと感じた。
著者の仮説はたいへん魅力的だが、肝心の論考にあまりに飛躍が多く、説得力があまりに小さい。それより何より、前半であれほど論じられた「イメージ」は結局どこに行ったのだと、読んでいて途方に暮れてしまった。