ごく普通の辞書には「矜持」とは、「自信や誇りを持って、堂々と振る舞うこと。ブライド」のような意味が書かれている。「新明解国語辞典」だけは違う。「自分自身をエリートだと、積極的に思う気持」とある。これは聞き捨てならない言い方で、エリート意識は鼻持ちならないニュアンスがあるはずである。
本書のタイトル「矜持」はどうか。著者は前書きで「めったに使われない単語だけに手垢がついていない。颯爽とした清涼感は私のイメージにぴったり」であると言っている。「素晴らしいタイトルを採択した私の功績」と言い添えるところに、尋常のプライドを越えるものが感じられる。
本文中でもはっきり言っている。曽野綾子との対談の中で、戦後社会では平等の名の下に「エリートという存在は良くないものとされてしまった」と嘆く。曽野も「エリート教育は格差を助長する…私には、このことがもうひとつよく分からない」と同調している。
本書「九人との対話」では、激論を闘わすところは全くない。和気藹々たる雰囲気の中で、互いの専門分野を述べ合い、類似点を確認し合う流れになっているのは、読者としてはやや不満である。
最終章の末尾はこうだ。「家庭教育ー阿川家は大日本帝国式、藤原家は武士道精神」古いなあ、と思う。ただ、著者たちは、エリート意識で凝り固まっているのではない。
藤原家家訓「卑怯な真似をするな。弱いものいじめを見つけたら身を挺しても助けろ」(亡父、新田次郎の訓言)を大切にしているという。 日本人に激減した「アレーテー」(ギリシャ語、勇気、貢献)、陳腐になったかもしれないが「大和魂」に思いが寄せられる。
更には、前近代語「矜持」は死語か、復活語か、という感慨に耽らされる。