近年ようやく、日本のことを見直そうという風潮が高まってきた。
日本で当たり前のことが通用しない世界に出て、外国や他民族との比較の中で、はじめて日本のことを知ることができる。
震災のような危機がなければ、このまま単なる無味乾燥で無機質な経済大国になっていったかもしれない。
震災の東北で、極限状態にありながら、自分達よりもっと困っている人達がいるといって譲ろうとする姿があった。
自分よりも公を優先する精神が素晴らしい。
日本の天皇は公のために生きる存在。その日本人らしい生き方を体現なさっている存在。
朝鮮で災害と言えば戦争など人災によるもの。日本で災害と言えば天災によるものが多い。
戦争・飢饉の朝鮮半島だから人為という観点が強く、地震津波の日本だから天為という観点が強くなる。
日本人は自然の声に耳を傾けることをしてきた。自然物や自然現象の一つ一つに神が宿ると考える。
だから自然を恨んだり逆らったりしないで「しょうがない」と受け入れようとする。
日本の場合は対立や排除ではなく融和とか融合を求めていく心が強い。
一方朝鮮では、異民族など外敵による侵略が多かったので自然崇拝などしてられなかった。
外敵に悩まされるところでは、どうしても国をまとめる統一的なイデオロギーが必要であり、これを体現する強烈なリーダーシップが必要になる。
すべての権力を掌握する専制君主がなくてはならない。
朝鮮半島でいう調和は、形をもって示される調和、目に見える外面的な関係や形のバランスであり、日本のように内面的なことを問うものではない。
だから「見てくれがよければいい」となる。
韓国の礼義正しいというのと日本の礼義正しいというのはかなり違う。
たしかに韓国人は祖父母や父母や目上への礼、尊敬語の使い方などでは、日本人よりもきちんとしている。
でもそれは礼の形式なのであって、必ずしもそれがそのまま内面の心の内容かどうかは別問題。
つまり礼は、長幼の序、地位の上下、身分の上下をはっきりさせ、整然とした社会秩序を形づくっていくためにあるもの。
儒教社会では礼の形式がそのまま制度。
韓国人での礼儀というのはもっぱら目上に対する礼儀。目上、目下の関係は社会秩序を維持する上で絶対的なもの。
身内の血縁に第一の価値を置く伝統があるので、外部の人に対しても「うちのお父様におかれましては外出されています」と尊敬語を使って表現する。
良くも悪くも家族主義が強すぎて、他人のことまで気が回らないので日本人のように「自分達より困っている人がいるのでそっちを優先して欲しい」とは言わない。
最終的には家族しか信じられないという面があるから。
朝鮮半島人にとっての礼儀正しさといえば、すべからく家族や社会の下の者が上の者に対しての礼義正しさであり、日本人のように下の者にまで、上下を問わず礼義正しさを示すことはない。
だから目下に対しては礼を尽くさないということも起きてくる。弱い者には辛く当たり、強い者には媚びる。
目上の者は目下の者に対して、へりくだった態度を見せてはいけないと考える。常に堂々として尊大な態度をとるのが良いこと。
そうでなければ、上下関係が乱れてしまうから。
儒教という長幼の序とはそういうこと。
家族、社会、国家レベルでの上下の秩序が一貫して整然と守られていることが儒教社会の理想なのだ。