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日本とユダヤ その友好の歴史
 
 

日本とユダヤ その友好の歴史 [単行本]

ベン・アミー シロニー , 河合 一充 , Ben‐Ami Shillony

価格: ¥ 1,575 通常配送無料 詳細
o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o
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商品の説明

出版社/著者からの内容紹介

日本とユダヤは、民族の危機に助け合った、美しい友好の歴史を持つ。二十一世紀の日本人よ、先人たちの偉業を知ってほしい。

 激動の歴史の陰にも、誇らしい、記憶したいエピソードがある。ユダヤ人は決して忘れない。日本研究の権威シロニー教授は、日露戦争時に日本を助けた銀行家ヤコブ・シフ、ユダヤ人の喜ばしい反響などを語る。
 ナチスドイツの迫害からユダヤ難民を救ったのは、杉原千畝ばかりでない。樋口季一郎、小辻節三ほか、シオニズムを声援した戦前の日本政府、キリスト者の内村鑑三、中田重治の存在をここに明らかにする。

内容(「BOOK」データベースより)

激動の歴史の陰にも、誇らしい、記憶したいエピソードがある。ユダヤ人は決して忘れない。日本研究の権威シロニー教授は、日露戦争時に日本を助けた銀行家ヤコブ・シフ、ユダヤ人の喜ばしい反響などを語る。ナチスドイツの迫害からユダヤ難民を救ったのは、杉原千畝ばかりでない。樋口季一郎、小辻節三ほか、シオニズムを声援した戦前の日本政府、キリスト者の内村鑑三、中田重治の存在をここに明らかにする。

出版社からのコメント

 隔月刊誌「みるとす」の特集記事としてご紹介してきたものを単行本化。日本とユダヤにどのような接点があったのか、あらゆる角度から取材してきたものばかりを集めました。

 著者の1人、日本学の世界的権威であられるヘブライ大学名誉教授のベン・アミー・シロニー氏は、日露戦争におけるユダヤ人の活躍などを書いてくださり、滝川義人氏との対談では日本とユダヤの興味深い共通点や相違点などを独自の観点で語っておられます。

 また、ユダヤ難民を助けた日本人たち----杉原千畝をはじめとして、樋口季一郎、JTBの職員、小辻節三などや、シオニズムを支持したキリスト者たち----内村鑑三、中田重治などを紹介していきます。

 激動の歴史の陰で起きた、記憶されるべき素晴らしいエピソードが満載です。ぜひ手にとってお読みください。

著者について

ベン・アミー・シロニー(Ben-Ami Shillony)
一九三七年ポーランド生まれ。歴史学者。一九四八年イスラエルへ移住。ヘブライ大学卒業。国際基督教大学、プリンストン大学に留学、博士号取得。一九七一年よりヘブライ大学東洋学部教授となり、日本の歴史・文化を講義。二〇〇七年ヘブライ大学名誉教授。二〇〇〇年日本研究に貢献して勲二等瑞宝章受賞。著書に『日本の叛乱 青年将校たちと二・二六事件』(河出書房新社)、『天皇陛下の経済学』(光文社)、『誤訳される日本』(光文社)、『ユダヤ人と日本人の不思議な関係』(成甲書房)、『母なる天皇』(講談社)他論文多数。

河合一充(かわい かずみつ)
一九四一年愛知県生まれ。ミルトス編集代表。一九六五年東京大学理学部卒業。同大学院修了後、学習院大学数学科助手。一九七二年UCLAでPh.D.取得。一九七八年エルサレムに語学研修留学。一九八五年ミルトス創設に関わり、現在に至る。訳書に『タルムードの世界』、『ユダヤ人の歴史』、『評伝マルティン・ブーバー』ほか。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

シロニー,ベン・アミー
1937年ポーランド生まれ。歴史学者。1948年イスラエルへ移住。ヘブライ大学で歴史と哲学を専攻し卒業、1965年国際基督教大学に留学後、1967年米国プリンストン大学に留学して博士号取得。1971年よりヘブライ大学東洋学部教授となり、日本の歴史・文化を講義。トルーマン平和研究所所長を兼務。ハーバード、オックスフォードはじめ多くの大学で客員教授として教える。2007年ヘブライ大学教授を定年退職。名誉教授。2000年日本研究に貢献して勲二等瑞宝章受章

河合 一充
1941年愛知県生まれ。ミルトス編集代表。1965年東京大学理学部卒業。同大学院修了後、学習院大学数学科助手。1972年UCLAでPh.D.取得。1978年エルサレムに語学研修留学。1985年ミルトス創設に関わり、現在に至る(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

抜粋

1章 日露戦争とユダヤ人

 一九〇四年(明治三十七年)二月、日露戦争が勃発すると、ヨーロッパのユダヤ資産家は、ユダヤ人を敵視していた帝政ロシアへの援助を拒否した。この資産家たちの中には、シベリア鉄道へ多額の援助をしたフランスのロスチャイルド卿も含まれていた。ロスチャイルド卿がロシアのために働いたのは、戦争で負傷したロシア人を援助する機関に寄付することにとどまった。
 ロシアに対する態度とは対照的に、他のユダヤ人資本家たちはみな日本を援助した。その中でも注目すべきは、ニューヨークのクーン銀行の経営者であるヤコブ・シフである。

 日本を援助した銀行家ヤコブ・シフ
 一九〇四年四月、シフはロンドンの会食で日本銀行の副総裁だった高橋是清と出会った。
 高橋は、軍資金調達のためにヨーロッパに来ていた。西洋ではこの戦争で日本が勝つということを信じた国が少なかったため、ヨーロッパやアメリカの銀行が、日本に対する資金貸付や日本の国債を購入することに、二の足を踏んでいた。
 高橋はシフに資金調達で苦労していることを話すと、シフは彼を援助しようと心に決めた。シフは帝政ロシアを「人類の敵」と見ており、その考えから自分の銀行をはじめニューヨークのあらゆる銀行を説得し、国債の五〇パーセントの抵当を取り付けてくれた。
 その結果、日本はアメリカやヨーロッパから約二億ドルの資金調達に成功し、その資金をもって船や武器、また必要な装備を調えることができた。
 ヤコブ・シフ自身、日本の国債を発行することにより、結果的に利益を得ることができた。それは、高橋に援助を約束した時点では考えられなかった結果であった。彼をそこまで駆り立てたものは、ロシアがユダヤ人に対して行なった迫害への復讐心であった。
 高橋は日記に、初めはシフが日本に援助したがっている理由が分からなかったが、時が経つにつれ、シフの同胞であるユダヤ人らが、ロシアで受けている圧制や虐待に対して、救いの手を差し伸べたい旨を告白してきた、と記している。
 ロシアは、シフが日本に援助したことを許さなかった。一九一一年、ロシアの大蔵大臣はアメリカの報道機関に対して、次のように述べている。
「ロシア政府は、あのユダヤ人シフが我われにもたらしたことを決して許さず、また忘れることはないであろう......彼は一個人でありながら、日本のアメリカからの資金調達を可能にした。彼は、我われに立ち向かった最も危険な人物の一人である」

 日露戦争と関わりの深いユダヤ人
 日露戦争(一九〇四~〇五年)は、ユダヤ人が兵士として、また様々な物語の生みの親として大いに関係した、近代における最初の大戦である。(注・国を失ったユダヤ民族は、紀元一三五年のバルコフバ反乱以来、戦闘経験はなかった)
 ユダヤ人はシベリア鉄道建設に携わり、戦闘態勢を整えた点でロシアに大きく貢献し、また自らロシア軍兵士として戦った。しかしその一方、戦争でロシアを負かすために日本に援助を送り、日本の勝利を喜んだのもユダヤ人であった。
 そして、戦時中に起きた革命の過程とその結末の中で随所に登場し、それと並行して同じ頃、ロシアからパレスチナへ移住するための重要な役割を担ったのも、またロシア系ユダヤ人であった。
 シベリア鉄道はロシアの軍事・経済の拡大に大きな弾みをつけ、日本との対立を早める要因となった。この鉄道は、国外から巨額の資金調達によってまかなわれたが、その中の一つがフランスのロスチャイルド銀行である。ロシア政府の奨励により、ユダヤ人事業家はシベリア鉄道沿線に居住した。東地域の開拓につとめ、ロシアの存在を強めるためである。
 中国の北東に位置する満州に、ロシアの町ハルピンが建設されたとき、ロシア政府はシベリア鉄道の中国部分と呼ばれる東清鉄道の地域と、その南部に当たる南満州鉄道の付近へ、在ヨーロッパ・ユダヤ人の移住を促した。その場所に「ヨーロッパ人口」を増援するのが目的であった。
 一九〇三年、ハルピンのユダヤ人コミュニティーで、請負業や商業に携わったユダヤ人の数は五百人を数えており、その地でもユダヤ人は町の発展に大いに貢献していた。

 ロシアの反ユダヤ政策
 日露戦争が起きた当時、ロシアではポグロム(ユダヤ人迫害)の嵐が吹き荒れていた。ポグロムは、ロシア政権の奨励と黙認により、押し進められていたのが現状だった。
 一八九四年に政権を握った皇帝ニコライ二世は、彼の政権を脅かすほどの民衆の不信感に直面していた。その打開策として、彼は民衆の怒りを「内の敵(ユダヤ人)」と「外の敵(日本人)」に向けようとした。
 二十世紀の初頭には、ロシア警察の援助により、『シオンの長老の議定書』という偽書が書き上げられ、世界征服の陰謀をめぐらしているとして、ユダヤ人に罪を着せた。
 一九〇三年、過ぎ越しの祭りのとき、ベッサラビアきっての都市であるキシネブにおいて、ユダヤ人に対する暴動が起った。ロシア民衆はユダヤ人の家や店を襲って略奪し、四九名の死者、数百名の負傷者を出す惨事となったのである。その暴動は千五百件にも及んだ。同年夏、ゴメルという町でもポグロムが起こり、八名のユダヤ人が虐殺され、多数の負傷者が出た。
 ニコライ二世はユダヤ人を嫌い、ロシアの災難の元凶はユダヤ人にあると見ていたのである。
 と同時に、皇帝は日本人も嫌っていた。というのも、彼が一八九一年(明治二十四年)に訪日した際に命を狙われ、負傷したことがあったためである(大津事件)。当時彼は皇太子で、東方にシベリア鉄道建設の計画が浮上していたときだった。彼は日本人のことを「猿」と呼び、またユダヤ人を蔑称で「ジディヤ(ユダ公)」と呼んでいた。

 勇敢なユダヤ兵士
 一九〇四年に戦争が勃発したとき、皇帝政権は徴兵を呼びかけた。ロシア帝国で徴兵された五十万の兵士の中には、ユダヤ人も多数いた。一九〇四年の終わりには、約三万三千人のユダヤ人兵士が満州戦線で戦い、その数はロシア兵全体の八パーセントを占めていた。ロシア人全体の中でのユダヤ人口は四パーセントだったので、ユダヤ人徴兵の割合は人口比率の約二倍だった。
 ユダヤ人は、特に軍隊の医療班で活躍した。ロシア軍医療班はそれまでユダヤ人を採用したことはなかったが、首都サンクトペテルブルグにおいて、戦争が勃発したときに召集された百八十人の医師のうち、四分の三に当たる百十人がユダヤ人だった。
 医療班に召集された人の中には、ワルシャワ大学の医学生ヘンルイック・ゴールドシュミットがいた。後に彼は改名し、ホロコーストで生徒と死の運命を共にした偉大な教育者ヤヌシュ・コルチャックとして知られるようになる。ロシア軍の医療班には、ユダヤ人の志願看護婦もいた。
 戦争におけるユダヤ人の献身的な働きにもかかわらず、ロシア政府は四〇パーセントに近いユダヤ人の若者が徴兵を拒否したとして、ユダヤ人を非難した。
 ロシア政権が反ユダヤの政策を進めていたにもかかわらず、ユダヤ人兵士は勇敢に戦った。その働きにより、ユダヤ人に対する「自分勝手で暴利をむさぼる者」といった悪いイメージを払拭し、戦争後にはキリスト教徒と同様の権利を獲得することができる、と信じていたからである。
 日露戦争において、今日最も有名になったユダヤ人はヨセフ・トゥルンペルドールである。彼は戦争勃発前の一九〇二年、二十二歳でロシア軍に入隊し、東シベリア大隊に志願した。戦争が始まったとき彼は旅順にいて、そこで繰り広げられた数々の激戦に参加した。その戦闘のさなか、彼は日本軍の砲弾により左手を負傷して病院に収容され、そこで負傷した腕を切断した。
 左手を失った彼は軍を退役することができたが、彼は再び戦線に戻ることを希望し、右手だけで刀や銃をとり戦線で戦った。この功績によって彼の名は広く知られるようになり、勲章が与えられて第二軍曹に昇格した。一九〇五年一月、旅順の要塞が陥落したとき、トゥルンペルドールは他のロシア兵と共に捕虜となった。

 世界中のユダヤ人、日本の勝利を喜ぶ
 多数のユダヤ人兵士がロシア軍兵として戦い、戦死したにもかかわらず、世界中のユダヤ人は日本の勝利を望んだ。それは、帝政ロシアの反ユダヤ主義政権を懲らしめたい、との思いからであった。
 アメリカのユダヤ人の中には、ロシアから移住した者もいたが、彼らは日本を熱狂的に支援した。
 一九〇四年二月の戦争勃発に伴い、アトランタ在住のユダヤ人は、日本海軍に軍艦「キシネブ」を寄贈するため、三百万ドルの献金を募った。ただし、結局この軍艦購入は実現しなかったが。
 明治天皇のドイツ人侍医エルヴィン・フォン・ベルツは、彼の一九〇四年三月三日付の日記にこう記している。日本在住のアメリカ人外交官が彼に「日本を支持するというアメリカの世論は、報道機関を牛耳って操作しているユダヤ人の陰謀だ」と話したという。
 ロシア政府も同じ見解だった。しかし、「ジューイッシュ・クロニクル」紙によると、実際はユダヤ人の所有外にあるアメリカの新聞に限って、最も熱狂的に日本への支持を表明していたのである。
 日本の陸と海での圧倒的勝利が伝えられると、ユダヤ人たちは喜びに包まれた。その喜びを公表した人々の中に、ナフタリ・ヘルツ・インベルがいる。彼は後のイスラエル国歌となる「ハティクヴァ」を作詞した詩人である。
 日露戦争の間、インベルはニューヨークで過ごし、彼が日本勝利の報を聞くと、その勝利を賛美した詩集を発刊した。ヘブライ語、英語、イディッシュ語の詩を含むこの詩集は、一九〇五年にニューヨークで発刊されている。
 この詩集は「一八五二年十一月三日にお生まれになった、日本の君主ムツヒトミカド(明治天皇)陛下」に捧げられたものである。この本の扉には、インベルが明治天皇に献上した手紙が転載されており、その手紙の中で、彼はキシネブでの暴動に直面したとき、「陛下の軍が、ロシアを罰してくださる」ことを予言した、と記している。

 トーゴー君と命名
 日本の勝利の結果、自分の息子たちを日本人の将軍や海軍大将の名前で呼ぶのが、ユダヤ人の間で流行した。
 これは同じ頃、ユダヤ人がヘルツェルという名前を多く付けたのに似ている。その中の一人で、一九〇五年五月、対馬海峡における日本海海戦勝利の日、エジプトのミズラヒ一家に生まれた子に、両親はトーゴーという名を与えた。言うまでもなく日本海海戦の英雄、東郷元帥の名前からとられたのである。
 当時、エジプトはヨーロッパの帝国主義に勝利したアジア最初の国、日本に対して好感を抱いていた。トーゴー君は成長して、一九二〇年代の後半にはエジプトで演劇界の先駆者となり、数々の映画の制作者、演出家、出演者として活躍した。
 一九二八年、彼がアレクサンドリアに建てたスタジオは、今日に至るまで「トーゴー・スタジオ」として親しまれている。

 日本への資金援助の始まり
 日清戦争(一八九四~九五年)のときには、フランスのユダヤ人銀行家アルベル・カーンは、日本政府に資金援助をしていた。
 日本の文化を崇拝していたカーンは、一八九八年、フランスで初めての日本庭園をパリ郊外のボロン森に造るため、日本の庭師をフランスに連れてきた。一九〇七年、彼は日本の若者のために奨学金制度を作り、優秀な日本人を西洋で学ばせる機会を設けた。この奨学金を最初に受けたのは、東大生の姉崎正治であった。彼は日本の優れた宗教研究家の一人となった。一九〇九年、カーンは日本を訪問し、明治天皇へ拝謁の機会を得た。

 銀行家ヤコブ・シフへの感謝
 さて、日本はヤコブ・シフの援助に対して、感謝は尽きなかった。
 日露戦争が終わった後の一九〇六年(明治三十九年)春、彼が妻と共に日本を訪問した際には、明治天皇は皇居で彼を厚くもてなし、日出ずる国の勲章(勳二等旭日章)を彼に与えた。外国人がこの勲章を受けたのは初めてのことだった。
 明治天皇が彼のために開いた晩餐会では、シフは外交儀礼をはみ出して天皇のために祝杯を挙げ、「戦争の先頭に立ち、平和の先頭に立ち、民の心の先頭に立つお方」とジョージ・ワシントンになぞらえた。
 日本のたくさんの要人が、シフに感謝するために、盛んにもてなしをした。
 日本銀行は彼のために歓迎会を設け、政治家で早稲田大学総長の大隈重信、東京都知事の尾崎行雄、第一銀行頭取の渋沢栄一らと同じテーブルで会食した。
 彼が東京に滞在中に、シフ自ら過ぎ越しの晩餐をホテルで催し、日本赤十字に献金した。
 シフは妻とアメリカに帰国する際、高橋是清の娘で十五歳の和喜子を一緒に連れて帰り、ニューヨークの彼らの家で三年間留学の機会を提供した。
 シフは東京都のためにも、アメリカで都債を発行するなどして援助し、これが都市が海外で発行する初めての債券となった。
 それにもかかわらず、シフは満州におけるアメリカ会社の権利の獲得に成功しなかった。そこでは日本とロシアが商業利権を分け合っていた。
 多くの日本人は、シフのユダヤ教に理解を示し、またポグロム(ユダヤ人迫害)に関する知識もあった。
 共産主義指導者の片山潜は、アメリカに滞在中の一九〇四年、アメリカの新聞に投稿した。「私はこの戦争には反対であるが、私は日本人として、ロシアのようなキシネブでユダヤ人に対して行なったような野蛮な国に、我が国が滅ぼされてほしくはない」と。
 それに対して、ユダヤ人の日本に対する好感的な態度は、反ユダヤ主義のヨーロッパにロシアを支持するという反動を与えた。カトリックの反ユダヤ新聞「Deutsche Zeitung」紙は、一九〇四年三月の新聞に、ユダヤ人が日本の勝利によって国際情勢が改善されることを望んでいるため、反ユダヤ主義者はロシアを支持し、ユダヤ人に対して強硬な態度で望み、彼らにキリスト教徒と同じ権利を得させないようにせねばならない、と記している。

 シオニズム運動へ理解を示す日本人
 一九〇四年十月七日、「Jewish World」紙は、ユダヤ人使節団が在ワシントン日本大使と会合し、ユダヤ人捕虜に対する取り扱いを改善するように求めたことを伝えた。大使は「日本はユダヤ人捕虜に対し、最高の友情をもって接する」と答えた。
 戦後、日本には約千八百人のユダヤ人捕虜がいたが、これは七万五千のロシア人捕虜の二パーセントを占めていた。南の港町、長崎のユダヤ人コミュニティーは日本最大のコミュニティーだったが、ロシア出身のユダヤ人が約百家族おり、町の近くに収容されているユダヤ人捕虜のために、宗教必需品を供給してもよいという許可を得た。
 日露戦争当時、日本に現存する唯一のシナゴーグだった長崎のシナゴーグでは、日本の勝利と明治天皇の弥栄を願って、祈りが捧げられていた。町のユダヤ人は、日本の赤十字に献金をした。
 旅順陥落に伴って捕虜となったヨセフ・トゥルンペルドールは、大阪の近くにある浜寺の捕虜収容所に約一年間収容された。
 ロシア人捕虜に対する日本人の扱いはきちんとしており、ロシア帝国の傘下にあった少数民族で捕虜になっている者に対しては、独立を勝ち取るよう励ました。トゥルンペルドールにも同様だった。
 彼は捕虜収容所の中で百二十五名からなる「日本で捕虜になっているシオンの子ら」というシオニズム連合結成を許可され、青と白の運動旗を振り、ヘブライ語を学ぶためのサークルを作り、ロシア語で週刊の「ユダヤ人の生活」という会報を作り、アメリカのシオニズム連盟のリーダーたちと手紙のやり取りをし、シオニズム運動のメンバーとなった。
 一九〇五年、日露講和条約が結ばれると、ユダヤ人捕虜の中からアイゲルというドクターが、東京大学の医師連合の名誉会員に選ばれた。
 捕虜が釈放されたとき、ロシアへ帰還するのを拒み、日本に残留したいとの願いを出したユダヤ人捕虜もいた。彼らはその願いを許可され、長崎のユダヤ人コミュニティーに合流した。
 一九〇六年、トゥルンペルドールがロシアに帰ったとき、彼はそこで英雄として迎え入れられた。彼は将校に昇格し、ロシア軍初のユダヤ人将校の一人となった。
 日露戦争において日本は、ロシアに存在する少数民族の独立運動に興味をもった。その中のシオニズム運動も例外ではなかった。
 一九〇五年五月、早稲田大学のヨーロッパ歴史学者、煙山専太郎は、月刊「中央公論」にシオニズム運動に関する記事を掲載した。彼はロシアで起こったユダヤ人に対するポグロムや、それに対する解決案として始まったシオニズム運動のことを紹介した。
「反ユダヤ主義」「シオニズム」といった言葉が日本で初めて使用されたため、これらの言葉は外来語で「アンチ・セシチズムとジオニズム」と表記された。同誌の七月号に、その記事の後半部分が掲載されたとき、前半の記事の中で誤植があったことを詫びて、「アンチ・セミチムズム(そのまま)とジオニズム」に訂正された。これが多分、日本でこの問題が取り上げられた最初であろう。

 徳富蘆花の「順礼紀行」
 一九〇七年(明治四十年)、イスラエルへの旅行記が初めて日本語で出版された。著者は作家・評論家の徳富蘆花(健次郎)だった。
(注・実は、日本人による最初のイスラエル旅行記が、これより一年前に出版されていた。山田寅之助著「埃及・聖地旅行談」一九〇六年、教文館発行。徳富は旅行前に、山田を訪ねて、体験談を参考に聞いている)
 徳富蘆花は尊敬するロシア人作家、レオ・トルストイを訪ねたが、ロシアへ行く途中、南回りの海路を取り、エジプトとイスラエルを訪れた。一九〇六年四月、彼はエジプトから船でヤッフォへ渡り、四カ月間エルサレム、死海、ガリラヤ湖とその周辺を観光し、絵を描いたり写真を撮ったりした。十月にはハイファからイスタンブールへ船で渡った。
 日本へ帰国してから徳富蘆花は『順礼紀行』を出版した。彼はイスラエルの景色や遺跡などに深い感銘を受けた一方、人々の貧しい様子や発展していない町の様子に落胆した。彼が描写したエキゾチックな風景の中には、西の壁で祈っている髭を蓄えたユダヤ人の姿があった。イスラエルの地は、アジアの貧しい発展途上の一部であり(彼はヤッフォからエルサレムまで汽車を使ったが、七十キロのその距離に四時間かかった)、日本はすでに先進国の仲間入りを始めた頃であった。
 徳富はユダヤ人と日本の日露戦争の勝利を結びつけなかったが、彼が出会ったトルストイはロシア崩壊の原因として、ユダヤ人と日本人を挙げていた。

 在ロシア・ユダヤ人への暴動
 さて、戦争に参加・協力することがロシア国民としての地位改善につながる、と考えていたロシアのユダヤ人の希望は、間違いであるということがはっきりした。
 ロシアが被った敗北の原因がユダヤ人に仕向けられたのだ。ユダヤ人は再び「贖罪の雄山羊」となった。彼らは「国家と皇帝への背信」という理由で、無実の罪を着せられた。政府は「愛国組合」を形成してユダヤ人の影響を阻止した。
 その中でも際立っていた組織は、ごろつきで構成された「黒い百人団」で、政府の援助でユダヤ人への悪巧みの活動をしていた。
 一九〇四年の秋、戦場に向かう召集兵たちが途中の町々でユダヤ人を襲い、その場にいた野次馬もその手助けをした。一九〇五年五月、ウクライナのジトミールでポグロムが発生、ユダヤ人二十五名が殺害され、助けようとした十名の若者も犠牲となった。
 しかし、群衆の失望をユダヤ人に向けることによって、革命を防ごうとしたロシア政府のもくろみは失敗に終わった。
 軍の敗退の結果、一九〇五年には革命が起こり、労働者階級や中流階級を巻き込んで広がっていった。同年十月には、皇帝は国民の解放と選出国会の創設を宣言せざるを得なくなった。
 これに対する反応として、ユダヤ人たちを悪者にしていた保守派の人間が、王国や教会の幹部に対するデモを行なった。その一カ月後の一九〇五年十一月、オデッサ、キエフ、キシネブといった数百の町々でポグロムが発生し、八百名のユダヤ人が虐殺された。一九〇六年の夏、ビアリストックやシャイデルツァで暴動が起こり、百十名のユダヤ人が犠牲となった。
 これらのポグロムはユダヤ人に大きな衝撃をもたらした。多くのユダヤ人は、政府が自分たちを守ってはくれず、自分たちのことは自分たちで守らないといけないということに気がついた。すべての町で自衛団が発足した。

 革命運動に参加する者
 他の者は、革命だけが自分たちの解放と平等を与えてくれると考え、革命運動に参加した。一九〇五年、サンクトペテルブルグに設立された革命ソビエトは、ユダヤ人革命家レブ・ブロンシュタインによって運営された。のちに彼はレオ・トロツキーの名で知られている。
 ソビエトでの他の革命指導者は、社会民主主義正統のメンシェビキ派の長ユリ・ツェデルバウムで、彼はユリウス・マルトーブの名で知られている。(ロシアでヘブライ語新聞の開拓者で、週刊誌「ハメリツ」の創始者であるアレクサンデル・ツェデルバウムの孫でもある)
 日本の政府は、ロシアにおける社会主義者や無政府主義者の運動を促進し、それによって復讐戦争を防ごうとした。ヤコブ・シフの資金援助によりとられた秘密の作戦で、日本のロシア人捕虜に、アメリカのロシア人共産主義組織によって出版された革命的な思想が書かれた本や冊子が配られた。

 海外移住とイスラエル帰還
 これらの暴動に対する在ロシア・ユダヤ人の他の反応は、海を越えて移住することだった。暴動が起きた一九〇五年半ばから一九〇六年半ばまでで、二十万人のユダヤ人がロシアの地を後にした。
 これはどの年よりも多い移民数である。多くはアメリカに渡り、カナダやアルゼンチン、イスラエルの地に行った者もいた。
 その中の約三千五百人は開拓者としてイスラエルへ帰還し、これが後に第二次アリヤー(帰還運動)と呼ばれた。彼らは革命思想をもった者たちで各地にキブツを興し、労働者政党を作り、バル・ギオラやハショメルといった自衛団を形成した。
 日露戦争勃発時の一九〇四年から、第一次世界大戦が始まる一九一四年までで、約四万人のロシア系ユダヤ人が第二次アリヤーで帰還したが、イスラエルにとどまったのはその中の一部であった。
 この帰還者の中の一人に、一九一二年に帰還したヨセフ・トゥルンペルドールがいた。彼は日露戦争の後、第一次世界大戦時には副司令官としてエレツ・イスラエル旅団を指揮し、英国軍としてトルコのガリポリ半島で戦った。この戦いで、イギリスはトルコ軍に大敗を喫し、トゥルンペルドールはロンドンに渡って、ユダヤ旅団結成のために活動した。
 一九一七年、ロシアのボルシェビキ革命(レーニン派)にともない、彼はロシアに帰ってユダヤ人兵運動組織で活動し、ユダヤ人コミュニティーの自衛活動をした。
 一九一九年、彼は再びイスラエルに戻り、ガリラヤ地方の自衛に従事する。一九二〇年、開拓村テル・ハイの攻防でトゥルンペルドールは倒れ、四十歳で死亡した。
 日本との戦い、トルコとの戦い、アラブ人との戦いにより、トゥルンペルドールは戦うユダヤ人軍人の新しい典型をつくった。日本において長い間の理想となったこの典型は、日露戦争後、ユダヤの国民運動を通して受け継がれてきたのである。

産経新聞「週末読む、観る」佐藤優、2007/12/16

 日本人とユダヤ人の関係について知るための名著が出版された。イスラエル事情に通暁した河合一充氏とヘブライ大学名誉教授のベン・アミー・シロニー氏による共著『日本とユダヤ その友好の歴史』だ。

 日露戦争中、日本政府により、ユダヤ人捕虜のヨセフ・トゥルンペルドールは、「捕虜収容所の中で百二十五名からなる『日本で捕虜になっているシオンの子ら』というシオニズム(エルサレムのシオン丘への帰還を目指す運動。イスラエルの建国原理になった)連合結成を許可され、青と白の運動旗を振り、ヘブライ語を学ぶためのサークルを作り、ロシア語で週刊の『ユダヤ人の生活』という会報を作り、アメリカのシオニズム連盟のリーダーたちと手紙のやり取りをし、シオニズム運動のメンバーとなった」(25ページ)。

 1912年にトゥルンペルドールは、イスラエルへ帰還し、民族独立のために戦って1920年に戦死し、イスラエルの国民的英雄になった。ユダヤ民族が独立国家をもつことに当時の日本が理解を示したことを評者も誇りに思う。

 元カウナス(戦前のリトアニアの首都)領事代理だった杉原千畝(ちうね)氏についても、本書ではインテリジェンス(諜報=ちょうほう)の観点から光をあてる。「ロシア通の諜報部員・杉原に注目したい。ユダヤ難民が脱出できるかどうかは、シベリア鉄道に乗れるかどうかだ。杉原は、ソ連当局から、日本の通過ビザがあればソ連も通過ビザを出すことを確認している。ロシア人以上にロシア語を上手に話し、ロシア人の気持ちを捉(とら)える力をもっていた」(77ページ)という河合氏の指摘は重要だ。

 評者も杉原は、形式的には外務本省からの訓令違反になっても、いまここでユダヤ人に対して通過ビザを発給することが日本の国益に合致するとインテリジェンスのプロとして確信していたのだと思う。その他、本書からは知的刺激を多々受ける。お勧めの一冊だ。

(起訴休職外務事務官・作家 佐藤優)

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