一九〇七年、徐世昌は初代満洲総督に任命された。これは注目すべ
き出来事であり、満洲朝廷が満洲人と漢人の間にある壁を打破する必要性を認識
していたことを示す、最も象徴的な出来事であった。この時までずっと、満洲
王朝発祥の地である満洲は、皇室の直轄地として、将軍によって統治されてき
た。いわゆる支那帝国は実際には満洲帝国であった(一六四四年以来ずっと)とい
う事実を、ここで思い起こさなければならない。更に、革命派が一九一一年
の蜂起を正当化した主な理由の一つは、満洲人は異民族であり征服者なので、漢
人を支配する権利はないというものだった。こうした事実は、満洲皇室による
一連の満洲政策と明らかに関係があるので、看過してはならない。一九〇
七年、満洲はこの時初めて、行政上、支那本土の各省と同列となり、遂にあの崇
高な地域への漢人の入植制限が廃止された。
この行政上の転換が、満洲朝廷自体の手によって実施されたことは注目すべき
である。それは、東三省を支那に寄贈するためではなく、国政上の実際
的な理由と、満洲人と漢人を共に一大家族の一員と見なしていることを、朝廷が
示したかったからである。更に、日露戦争の結果、遼東半島(旅順、大連を含む)
と南満洲からロシアが駆逐され、この地域のロシアの権益が日本に移譲された後
に、満洲の地位の変化が実施されたことも注目すべきである。一八九八年早々に
は、満洲は既に実質上ロシア領となり(満洲在住のイギリス人による)、一九〇
〇年には、支那は東三省をすべて失ったと支那歴史家に言わしめるほど、満洲
に居直ったロシア軍が勢力を強化したことも忘れてはならない(注8)。日本は
一九〇四?五年に満洲のコウ野で闘った日露戦争に勝利した後、戦場においてロ
シアから奪った権益は保有したが、それらの権益が属している地域は、ロシアに
強奪された元の支配者に返還した。もちろん、元の支配者とは満洲朝廷のことで
ある。支那朝廷という名称は専門的には正しくないだろう。というのは、支那語
における支那帝国の正式名称は、中国(支那)ではなく、大清国であり、最も近い
同義語は満洲帝国であるからだ。大清というのは、満洲の支配者が征服者として
支那に侵入する数年前に採用した、王朝の名称であり、その後も使われ続け、広
大な全領土に適用された。支那は単にその広大な領土の中の、最大で最重要の地
域に過ぎなかった。国名に王朝名を使用することは満洲人の発明ではない。異
民族や漢民族の歴代王朝の慣例に従っただけである。支那帝国や
支那皇帝という名称は支那や満洲の慣習にはなく、支那の慣習的用語や朝廷用語
に精通していない西洋人によるそうした名称の使用を、支那朝廷が黙認している
に過ぎない。
初代満洲総督の徐世昌は漢人であったが、満洲は特別な地域である、と朝廷
が引き続き見なしていたことは明らかであった。例えば、徐世昌の後任者錫良は
モンゴル人であったが、満洲同様皇室の直轄地として扱われていた熱河の
都統を既に経験していた。また、宣統帝の御代の最後の年に当たる一九一一年に
は、錫良の後任に趙爾巽が就任した。趙は漢軍八旗に属しており、実際には満洲
人と同様に扱われていた。
一九〇七年、汪大燮(後のロンドン駐在の支那公使)は第二次視察団々長とし
て、憲政研究のために欧州各国を歴訪した。同年、孫文と黄興が広西省で反
乱を企てたが、あっさりと鎮圧され、孫文は再び海外亡命を余儀なくされた。
その頃、学生の政治活動禁止令が初めて発布されたが、ほとんど影響がなかっ
た。支那の学生運動が政局に重大な影響を及ぼすのは、辛亥革命のずっと後の
一九一九年以降のことである。(第4章、45-6頁)