登録情報
|
本当にFのほうがQよりシェイクスピアの意図を強く反映しているのか、それともどちらも同列の不完全なテキストなのか? 本書を読むと自然、FとQの違いが意識されてしまいます。私には翻訳文の良し悪しを判断する能力はありませんが、この脚注はとても有意義に思われます(専門的にという方には不充分だと思いますが)。草稿が決定稿以上の価値を持っている場合のあることは、他の作家についても言えることです(たとえば、ドストエフスキーの「悪霊」の決定稿には「スタヴローギンの告白」は含まれていませんが、この「告白」の場面こそが「悪霊」の白眉だ、というのが一般の評価です)。
他訳を既にお持ちの方でも、興味がありましたら読み比べてみてはいかがでしょうか?
ハムレットが初めて口を開く重要科白、A little more than kin, and less than kindを比べてみよう。「親族より近いが、心情は遠い」(小田島)。「血のつながりは濃くなったが、心のつながりは薄まった」(松岡)。「お世辞にも叔父は親父(おやじ)と同じとは言えぬ」(河合)。意味より音を重視し、「お」音の言葉遊びに転換したのは見事。第2幕第2場、ポロニアスが罵倒するハムレットの「下手な」英語the most beautified Opheliaは、「美しきなるものオフィーリア」(小田島)、「美の化身たるオフィーリア」(松岡)に対して、河合訳は「誰よりも美化されたオフィーリア」。逍遥以来100年、先行者の苦闘と成果の上に、また一輪の花が咲いた。
特に気に入ったのは、巻末に「to be or not to be」のくだりが、今までの訳本でどう翻訳されてきたかを全て並べている部分。
さまざまな努力をシェイクスピア物の訳者が重ねていることがわかり、おもしろい。
「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」と掲載した訳本がこれまで存在していなかったのには、驚いた。
|
この商品のクチコミ一覧
クチコミを検索
|
関連するクチコミ一覧
|
|
|
|