2:4を岩波の荒井訳が「異なる言葉」としているのを「生かじりの知識で学問に口を出すのはつつしまないといけない」として、それは6節と8節でdialektos(言語)と言い換えていることからも明白として切って捨てます。さらに、3:20で「休息の期間」としているのを世界で唯一変った訳だとして、anapsyxisはほてったものが冷えて寛ぐという意味だと批判します(でも、田川先生の「生気一新」も如何とは思いますがw)。
このほか、2:5については、ネストレが「信心深い"ユダヤ人"が住んで」いたとユダヤ人を入れているのを、シナイ写本とウルガタ、シリア語訳の一部の読みを採用して「エルサレムには天が下のすべての民族からの真面目な人々が住んでいた」と訳すところの註も秀逸。この本の購入をためらっている方がいたとしたらp.107-113をぜひ、書店で読んで欲しいと思います。雑誌まではあたっていませんが、この箇所については並のコンメンタリーよりは遙かに素晴らしいし、ギリシア語の本文を読むことの意味と大切さをわからせてくれます。単にシナイとバチカン写本の違いだけにとどまらず、文脈からも「ここに集まっていたのはユダヤ人だけだなどという説はありえない」として、さらに「使徒行伝では10章以後でしか異邦人に対してキリスト教が語られるということはない、と前もって前提に」していること自体が間違いの元で、だいたいペンテコステの奇跡によって、世界の諸民族に伝えられるべきものだという箇所なのだから、という議論は非常に説得的です。
「若い頃から最もよく調べてきた文書の一つであるのだが、このように大きな形で使徒行伝の解説を書くのはこれが最初で最後」と後書きで記している、田川さんの一世一代の訳と註だと思います。青っぽい社会批評は正直、いただけませんが、新約聖書の本文に向き合う田川さんは凄いな、と改めて思いました。