権威のある著名な学者による最新の研究成果を盛り込んだ原典に忠実な翻訳と、手放しに賛美できない。ギリシア語原典やしかるべき文法書・辞書などにアクセスできる者にとっては、彼らの訳文と注から原典のギリシア語を思い浮かべることができるからよいが、これによって始めて聖書に触れるものには誤解を与えかねない箇所がある。ひとつ例を挙げよう。マルコ12:30が「あなたは、あなたの神なる主を、あなたの心を尽くし、あなたの命を尽くし、あなたの想いを尽くし、あなたの力を尽くして愛するだろう」と訳されており、注には「他の邦訳はすべてこれを命令形で訳す。命令的ニュアンスは確かにあるが、元来は本訳のように未来形。」とある。この箇所は元来旧約の申命記6:5の引用なのだが、ヘブライ語原典では未完了形であり、しかるべきヘブライ語文法書を参照すればこれは普遍的命令を表す用法とある。これがギリシア語に翻訳される際、七十人訳ではこれを未来形に訳し、これが新約で引用されている。しかし、Blass and Debrunnerの文法書はじめどのギリシア語文法書でも、未来形は命令の意味での用法があり、それは聖書に限らずギリシア古典にも広く用例が見られるという。英語やフランス語でも未来形が丁寧な命令(つまり依頼や勧誘)を意味するのを思い起こせば、未来形が命令の意味を持ちうることは素人でも了解可能である。しかし、日本語では未来形が命令の意味を持ちうることは想像しがたい。誠実な訳者なら本文は命令形としつつも、注において原文では未来形であると指摘すべきところである。なんと他の箇所も含めて未来形で命令を表すところがすべて未来形で訳されている!上記のように、あたかもこれまでの邦訳がすべて誤訳であったかのごとき注釈もなされている。しかし、入手可能な本格的ギリシア語文法書でこの用法に触れていないものはなく、そうした事実を隠蔽して、やたら世間を驚かすためだけの「新訳」にどんな価値があるのだろうか?尊敬すべき研究をされてきた立派な先生方の訳だけに、期待はずれもはなはだしい。さらに言えば、同じ岩波の旧約聖書では問題の箇所はきちんと命令形に訳されている。読者が権威主義に惑わされないように祈る。