私の家の近くには小さな教会があり、子供の頃は日曜ごとに教会学校に通う友達家族を羨ましく眺めていました。
そんな事も忘れかけていたある日、本屋でボッティチェッリのマリアが、憂いに満ちた表情で平積みにされているのを見つけ、財布の中の全財産(初版。学生にとっては大金の1100円でした)をはたき、親に内緒で購入しました。(今は無くなってしまいましたが、帯の内容に魅かれたのだと思います)
家に帰り、早速”マタイオスによる福音”(マタイによる福音書)から少しずつ読みはじめ、一週間ほどで最後の”ヨハンネスへの黙示”(ヨハネの黙示録)まで読み終えられたのは、一般人にもわかりやすい"丁寧な注釈”と、語りかけるような”あたたかい訳”のおかげだと思います。
例えば、マタイ5:3「心の貧しい人々は、幸いである(新共同訳)。」は、共同訳では”ただ神により頼む人々は、幸いだ。”とあり、『霊において貧しい人々。自分の人間的貧しさを悟って、神によりすがる人』と注釈してあります。同じく5:5「柔和な人々は、幸いである。(新共同訳)」では、”耐え忍ぶ人々は幸いだ。”が「不幸な境遇にあっても憤らず、正しく生きる人々」と、このように事細かく解説・注釈がなされているのです。
当時の私には、一節一節が重く、とても心に響きました。一日の終わりに読み、今も口語訳・新共同訳・文語訳・新改訳の横で時々の出番を待っています。
ことばは時代と共に常に変化します。今もその途上です。かつて君が代が讃美歌として歌われていた時代もありました。聖書もその例外ではないと思うのです。
訳に関しては教会は認めていないかもしれませんが、共同訳の本来の目的が『人類共通の宝である聖書を、現代の平易な日本語に訳すこと』であって、『教会の典礼や礼拝に用いる事を第一の目的としたものではなく・・・』(以上、新約聖書―共同訳より引用)とある通り、信者しか解らないような専門用語が並んでいる聖書であったならば、今の私は無かったことでしょう。少なくともこの分厚い文庫本は私にとっての「福音(書)」であって、初の共同訳として(個人的にも)是非、永く残していただきたいと思うのです。