最初っから最後まで、ご説ごもっともである。異論はまったくないけど違和感は思いっきりある。やっぱ、辻井喬名義じゃなく堤清二名義だったら本書の内容をこういう風に語れるのか?っていうさ。批評者じゃなく当事者として。いま世の中がこうなっってしまった責任の一端はセゾン文化には一切無いのか?っていう。別に非難しているわけじゃなくて、読む側、70年代から80年代にかけてセゾン文化を享受した側としては、堤清二が“セゾン文化と今の世の中の関係性”をどのように捉えているのか?ってのが最大の注目点な訳で。こんな高みからの物言いは、はっきり言って肩透かしである。今こそ是非、堤清二としての「新祖国論」を書いてほしい。
「堤清二」の意図はそこになかったにしろ、「文化も金で買える」「差異化が金を生む」なんてあたりは、きっと大衆のセゾン文化の読み違えに端を発している気がするんだよね。ほんとは、堤清二には経済社会の最前線に踏みとどまってもらって、間違って展開したセゾン文化の軌道修正っていうか、ケツを最後までしっかり持ってほしかったんだけどさ。ちゃんと文化もわかってる見識のある経営者って今の世の中居なくなっちゃったわけで。もちろん、堤清二としての発言力なんていまやゼロパーな訳ですが。
最後まで辻井喬が自らの立ち位置をどう認識してこういった内容を書いているのかがわからず、腑に落ちない、無念な気持ちでページを閉じた。
あと、コラムごとにデカ字のリードで1ページ使うのはどうよ?教祖のご託宣じゃないんだし、3ページの内容に1ページのリード付ける意味無いって!