鈴木大拙氏は、見性(けんしょう)しておられますので、評価が難しい人の一人です。
誰かに、「見性底が、即、大悟底か?」、或いは、
「見性さえしていれば、正法を見る眼、択法眼(ちゃくほうげん)が具わっているのか?」、
と問われれば、私なら、「勿論、違います」とお答えします。
鈴木氏は、生涯の間に、境涯の深化がありましたから、
その点も考慮しなければなりません。
しかし、本書に限って言うなら、本書の内容は、
「禅とは何か」の説明になっていません。
何故なら、本書に於ける全ての説明は、
演繹的でなく、帰納的であり、
合理論的でなく、経験論的だからです。
哲学用語を援用して説明しましたが、分かる人には、分かると思います。
「悟りそのものに即した、悟りに就いての説明」は、
本来、演繹的・合理論的であるべき筈のものです。
もし、分かっている人から、私が、次のように言われたなら、
即ち、「読者は皆、悟っていない人ばかりだ。
方便として、帰納的・経験論的な説明にならざるを得ないじゃないか。」
と言われたなら、私は、それに対して、
「それなら、鈴木氏は、少なくとも本書のどこか一箇所で、
『私は、真実ではなく(◆註1)、方便としての説明をしました』と、
断っておくべきでした」と答えます。
何故なら、「禅とは何か?」という問いは、
「悟りとは何か?」という問いと、equivalentであり
(そのことは、鈴木氏御本人が分かっています)、
それは、本書に於て、全く説明されていないからです。
例えば、本書によって、釈尊の遺誡を、誰にでも分かるように、説明出来ますか?
仏教・禅の多くの事柄を、総合的・整合的・統一的に説明出来るものが、本物の悟りです。
本書によって、それが出来るか出来ないか、良くお考え頂きたいと思います(◆註2)。
◆註1、仏教用語としての「方便」の反対語は、仏教用語としての「真実」です。
普通の意味での「真実ではなく」ですと、「誤った説明をしました」という違う意味になりますので、御注意下さい。
◆註2、尤も、未開悟の方々は、「自分自身の悟りを基として、そこから判断する」ということが出来ませんから、
A 既成の権威にたよって、B 概念的な判断をするしかありませんが、
AとBは、その本性上、霊的な真理を消滅させるものです(AC1626)。
又、未だ個我でしかないpropriumには、自己保存の機制が働いていますから、
自分のpropriumの形を否定するものに対しては、訳が分からない乍らも、本能的な反感を覚えます(AC3665-2)。