数々の著書を生み出す取材過程で出会った、主役・脇役様々な人々を、概ね一人一話形式で編んだコラム集。おのずとネタの使いまわしとなるのはやむを得ないところだが、それにしてもこのタイトル「新 忘れられた日本人」とはよくもつけたものだと思う。宮本常一の「忘れられた日本人」を愛すると著者は言うが、そうであれば猶のこと、宮本の著作と本書の取り上げる人物像のあまりに懸け離れた距離に、この標題はためらわれるはずではないか?
佐野の言う「忘れられた日本人」とは、「あの人は今」的な元有名人であり(小渕恵三や中内功が忘れられた日本人だと!?)、人脈の谷間にたまたま埋もれた人であり、さらに言えば「私(佐野)が見出した人」である(著者に言わせれば、であるが)。名も無い庶民のライフヒストリーを聞き書きした宮本とは仕事の性質が対極的と言っていいほど異なるのだ。また佐野には、コラムの主人公の例えば職場の同僚の著名人を前後の文脈と関係なしに挙げ、その著名人の業績をこれまた前後の文脈と関わり無く延々と紹介する、といった悪い癖がある。原稿用紙の升目を埋める以外にどんな意味があるのか、一読者としては読みにくい限りだが、このように人脈によって人間を形容する姿勢に、宮本との人間観の隔たりを感じるのは評者だけだろうか?
彼の取材のすごさは同業者が絶賛する。しかしたとえば多くの先人が断念した枢密院議長の日記を自身が初めて解読した、と匂わせたり「オレがオレが」の押し付けがましさは、読んでいてうっとおしく、物書きはもう少し謙虚であって欲しいと願わずにはいられない。