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文明としての教育 (新潮新書)
 
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文明としての教育 (新潮新書) [新書]

山崎 正和
5つ星のうち 3.4  レビューをすべて見る (7件のカスタマーレビュー)
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商品の説明

内容(「BOOK」データベースより)

国語教育こそ「愛国教育」である。倫理の領域に踏み込む「道徳教育」は教室になじまない。学校に過剰なサービスを期待してはならない。…西洋は古代ギリシャから近代アメリカまで、日本は鎌倉時代から明治時代まで、東西の教育史をつぶさに検証。文明と教育との深い関わりを鮮やかに解き明かした上で、明日の日本のため、さまざまな提言を大胆に行う。中央教育審議会会長による画期的な教育論。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

山崎 正和
1934(昭和9)年京都府生まれ。劇作家、評論家。中央教育審議会会長。文化功労者。京都大学文学部哲学科卒業、同大学院博士課程修了。関西大学教授、大阪大学教授、東亜大学学長等を歴任(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

登録情報

  • 新書: 207ページ
  • 出版社: 新潮社 (2007/12)
  • ISBN-10: 4106102412
  • ISBN-13: 978-4106102417
  • 発売日: 2007/12
  • 商品の寸法: 17 x 11 x 1.4 cm
  • おすすめ度: 5つ星のうち 3.4  レビューをすべて見る (7件のカスタマーレビュー)
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14 人中、11人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
形式:新書
世界の教育史を見ながら、日本の教育のありかたを提言しています。
中盤の教育史はやや間延びを感じ、読みどころは終盤にあります。
簡潔に言えば、「義務としての教育」と「サービスとしての教育」を分けて考えようと言うことです。

義務としての教育は、「読み書きそろばん」と「遵法」です。
これは国家からの強制であり、無知は許されないものだといいます。
一方のサービスとしての教育は、独立した個人として生きるための教育です。
極端に言えば、「読み書きそろばん」以外は、みなサービスとしての教育だということです。
道徳、倫理も、個人によって適応が違い、サービスに属するという考えです。

本書を読んで、最低限のことを厳しくというのが著者の方針であろうと思いました。
基礎さえ押さえていれば、後は個人の好みにまかせるべきだということです。
今の教育は、何もかもを求めすぎているということなのでしょう。

この通りに行うべきかかどうかは別として、提言としては、傾聴に値すると思いました。
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3 人中、2人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
形式:新書
著者山崎氏は、201ページ以下の「驕りなき教育を」の小見出しをもつ文章のなかで、子供の個性の発見という奇跡に遭遇するかもしれないからといって、教師を親方と見なし児童生徒を弟子と見立てる関係にもってゆくのは、いいかえると、ムラ社会の人間関係を教室に築くのは、法の支配を否む前近代的な精神を学校に助長するとして、反対している。

これは、戸田忠雄氏がその著作「学校は誰のものか」(講談社現代新書)の、36ページ以下の「学級目標にあらわれたもの」の小見出しをもつ文章のなかで記述しているのと、軌を一にする主張である。両氏の論調に、私は、公立高校の一教員として、全面的に賛成したい。

高校では、欠課時数といって各科目ごとに、欠席がその時数をオーバーすれば、その科目の単位の修得ができない数字が定められている。ある生徒が、あといくつオーバーすればだめになるのかは、その生徒が当該の教科担任にダイレクトに問うべきだし、そうするのが当然だと思い続けていたが、いつのころからか、その生徒の学級担任が、生徒に成り代わって、教科担任に問い合わせることが多くなった。

学級担任が、なにか親方代わり、ないしはそれこそ親代わりをするのがいいのだとなったのであろう。生徒もそうしてもらえるのが当たり前で、はては、自分が欠課時数をオーバーしたのは、教師が知らせてくれなかったせいだと学校を論難しても変ではない雰囲気が醸し出されるにいたった。ムラ社会の人間関係を押し通すとはこういうことなのだな、と私は思わざるをえなかった。

そのような人間関係が、生徒の「無知の知」への気づきを、いいかえると、「いかに自分ができない者か」ということへの自覚を強く妨げていることは、今さら論を俟たない。「文明としての教育」は、教育関係者に、学校における教師‐児童生徒関係の根本からの問い直しを迫る好著である。
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最良の教育論 2011/11/27
形式:新書
子供の中学受験があって教育についてあれこれ考えることがあり、随分教育関係の本を読んだ。頭の悪い自称プロ教師が書いた本、それをそっくりそのまま引用しては世間の人気に便乗して商売する関西の大学教授が書いた低俗本、はたまた灘中東大医学部卒という学歴のみを唯一の売りにして商売に励むビジネスライターの書いた本など、どれもこれも読むにつけ腹が立つものが多かったが、これは違う。やはり現代の英賢が教育を語るとなるとかくもレベルが高く教養の香り芳しいものにしあがるものかとほとほと感心した。やはり山崎正和はそんじょそこらの連中とは一味も二味も、いや数十段レベルが違う。

山崎は本書を書くにあたりギリシャ・ローマ時代の古典に遡って教育論を通読した上で本書を書いたという。その過程で、児童中心主義の論者達の理論も総ざらいした上で、それらをきちんと整理しきちんと批判しているので頭を整理するのに非常に便利な本ともなっている。

まず山崎は「教育とは国家による統治行為である」ときちんと言い切っている。反体制の不逞の輩を育てるのは教育とは正反対の行為であるとすがすがしく言い切っている。国旗国歌に敬意を学校内の公式行事の場で敬意を表するのは国家から教員免許をさずけられた全ての教員に課せられた当然の義務であるという。子供に順法精神を刷り込むのが全ての教員に課せられた義務である以上、国旗国歌法で定められた国旗国歌に一定の敬意を表するのは当然だというわけだ。なんとシンプルな、なんと清々しい断定だろう。いや、心が晴々する。

山崎は教育の目的は高度産業化社会の中で国家が集団として競争力を維持していくための最低限の素養を強制的に国民に叩き込むのが義務教育のそもそもの目的であるという。現代の社会では、例えどんなウスラバカでも無知である自由、無教養である権利は無いのだという。読み書きそろばんの最低ラインは国家によって強制的に国民の一人ひとりに叩きこまれねば、その国家は厳しい国際競争の中で脱落していかざるを得ない。それ故、山崎は今の義務教育のトコロテン式進級方式に疑念を呈する。暴走族予備軍やプータロー予備軍と化しているプーさんたちはきちんと落第させ、一定の水準に達するまで中学を卒業させないことも必要なのではとほのめかす。

また山崎は、教育を「国家が国民の一人一人に最低限の素養を叩き込む統治行為」としての教育と、高度な知識を身に着けて出世街道を歩む人たちのためのサービスとしての教育の二つに分け、後者のサービスとしての教育については民営化してはどうかとも提案している。山崎が中教審で提案した週休三日制はこの発想の延長線上のものであって、要するに休みの3日間を利用してSAPIX等の塾に行きたい人は自腹で勝手に行けというものなのだ。明治以来、日本の教育は人材選抜という科挙制度の香りを強く持ちながら発達してきた。それでも旧制中学・旧制高校を経て帝国大学へと進む層が人口の1%前後だった当時では旧制高校の段階で選抜され終えたエリート達が「人格を陶冶する」教養のための教養を磨く「擬似学歴貴族」となりうる瞬間もあった。しかし戦後、高等教育を受ける層が爆発的に増えるに従って、こうした「学歴貴族制度」は崩壊し、日本社会はそれに続く制度をいまだに模索している最中である。このあたりについての山崎の考察も極めて鋭い。

更に山崎は、「教育とは強制であってはならない。教育とは子供が本来うちに秘めている可能性を引き出すお手伝いをするものだ」式の児童中心主義、自由主義教育論を一刀の下に切って捨てる。このアホな教育論を提唱したのはアメリカのシカゴ大学の教授で、彼が彼の方式を実験したのは高度な教養を身につけたシカゴ大学の教授たちの子弟を集めた学校であって、だからこそそれがある程度うまくいったのであって、これを下層階級や無教養家庭の子弟に対して適用しても上手く機能するはずがないと言い切るのである。これも合点がいく断定だ。日本有数の進学校である筑波大附属駒場中学校・高等学校には「駒場の自由」という言葉がある。同校には校則も宿題もほとんどなくすべては学生の自治に任されているというが、これが機能しているのは筑駒という日本最優秀校だからこそ可能なのであって、これが2番手3番手の学校、例えば麻布などとなると、もう「自由」は機能し無くなり放縦に堕してしまっている。麻布の昨年の運動会は取り止めとなったが、これには麻布の生徒が自分で自分を律することが出来ず放縦に堕したことが原因であると仄聞している。

最後に山崎は公立学校における課外活動=クラブ活動を一切やめ、これを地域のクラブ活動に外だしにせよと極めて最もな提言も行っている。一般に公立の中学高校の教師は薄給である。薄給のわりに近年どんどんその負担が増えている。なかでも最も負担となっているのが生徒のクラブ活動の顧問であり、これは実質的な時間外勤務であるにもかかわらずほとんど手当てが出ない無償奉仕となっている。それでいてクラブ活動中に事故でも起これば担当の教師は法的責任さえ昨今追求されかねない状況である。こんなバカなことは一刻も早くやめ、クラブ活動は地元の野球クラブなりサッカークラブなりに外注せよと山崎は言うのである。名門私立はプロのコーチを高い給料で呼び寄せて生徒指導に当たらせているところも多い。こういう連中とタダ働きの公立学校のチームがマトモにぶつかって勝てる可能性は少ない。学校の基本機能は勉学であることを山崎の指摘は我々に思い出させてくれる。
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