●本書はまちがいなく「漱石のすべての著作の中で、読まれることの最も少ない本」(解説P429)である。私も、これまで読むのをずっとためらってきた。漱石本人が「失敗の亡骸(なきがら)」というくらいだから(
私の個人主義 (講談社学術文庫 271))どうせ面白くないんだろう――と思ってきた。
●ところが、実際に読んでみると、なるほど「漱石自身の文学的価値観」(P454)というものが直截的によく出ていて漱石ファンにとってはなかなか興味深い。だが、通読には相当な「辛抱」(P444)が要ったことも事実である。上巻だけ買って挫折した読者もきっと多いにちがいない。
●しかし、下巻の最後にある亀井俊介氏の「解説」は、通読の苦痛を補って余る素晴らしさだった。そのことをお知らせするために、本書のレビューを下巻に書く。これは、私が知るかぎり漱石文学のもっとも優れた紹介文のひとつと言って良いだろう。
●亀井氏の言うとおり、この「文学論」は実にでこぼこしていて「とっつきにくい」(P470)。しかし、それは漱石がひとりロンドンで全身全霊を賭して悩み考え抜いた記念碑なのである。気負い、混乱、なにかをがっちり握りたいという焦り、本書に垣間見るそうした漱石の若々しさと真面目さを私は愛さずにはいられない。