主人公は翻訳家で、仕事をするためカナリア諸島へやって来ている。彼女が訳している物語とは、騎士ゲオルクが龍を倒して姫を救うという話。島には「ドラゴン風」というものが吹き、島を乾かしているらしい。
乾いた河底を「わたし」と歩く「作者」は、こう呟く。<水があったら道ではなくて河でしょう。それでも別に困りはしないけれど。道がなかったら歩かなければいいのだから>。水が流れていた痕跡としての道と、ドラゴン風に追い払われた水。恐らく「水」は言葉の意味の、島に転がる「石」は単語のメタファーだ。乾いたインクの染みとしての文字が、失われた意味の痕跡だとすれば、「わたし」の訳した言葉は水性インクのように危うい。水の流れを伝えるべき言葉の群れは、実際に水が流れたなら、消失してしまうだろう。
統辞法の異なる言語への移植作業(=翻訳)に四苦八苦する「わたし」にとって、自らが逐語訳的に異国語の統辞法に沿って配列してしまい、意味を半ば解体してしまった日本語は、「濡れもせず乾きもせずに石の上に絶えず揺れている影」、言葉の分裂によって知覚も感情も分裂してしまった、彼女自身の影である。<道がなかったら歩かなければいい>という言葉は、翻訳者という存在、「わたし」を排除する言葉だ。
どこまでも異邦人でしかいられない彼女が「二十五メートルしか泳げない」のはどこか、カフカの『審判』で掟の門番が語る「三人目の門番を見ただけでも俺には耐えられない」という言葉に似ている。言語を越えて真実を見ようとする者が直面する、死や狂気のような、直視し難いものの露出。
「わたし」の皮膚に起こるアレルギーや、靴に勝手に入って痛みを与える小石、或いは島の人々との何気ない会話など全て、「文字移植」に伴う拒絶反応に苦しむ「わたし」の症状の表れでもある。意味の外れた文字の物質性から、皮膚感覚へ。