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散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道
 
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散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道 [単行本]

梯 久美子
5つ星のうち 4.6  レビューをすべて見る (79件のカスタマーレビュー)

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商品の説明

商品の説明

第37回(2006年) 大宅壮一ノンフィクション賞受賞

出版社/著者からの内容紹介

2006年大宅壮一ノンフィクション賞を圧倒的評価で受賞!!
文章の品格、構成の的確さ、抑制のきいた表現。
各紙誌絶賛の傑作。

硫黄島で米軍を最も怖れさせた指揮官は、家族に手紙を送り続けた父でもあった。
絶海の孤島・硫黄島で、総指揮官は何を思い、いかに戦ったのか……。妻子を気遣う41通の手紙。死にゆく将兵を「散るぞ悲しき」とうたった帝国軍人らしからぬ辞世。
玉砕という美学を拒み、最期まで部下と行動を共にした指揮官のぎりぎりの胸中に迫る。いま、日本人を考えるための必読書。

内容(「BOOK」データベースより)

娘よ!妻よ!絶海の孤島からの手紙が胸を打つ―水涸れ弾尽きる凄惨な戦場と化した、本土防衛の最前線・硫黄島。その知略で米軍を最も怖れさせた陸軍中将栗林忠道は、粗末なテントに起居しながら、留守宅の幼い末娘を夢に見、お勝手の隙間風や空襲の心配をする愛情こまやかな父でもあった―。死よりも、苦しい生を生きた烈々たる記録。感涙のノンフィクション。

内容(「MARC」データベースより)

東京を、日本を、空襲から守るために、玉砕を拒んだ総指揮官がいた-。軍人として父として命の一滴まで戦い、智謀を尽くした戦略で「米国を最も怖れさせた男」の姿を、家族への手紙とともに描く人物伝。

出版社からのコメント

2006年は硫黄島に関する映画が2本公開されます。どちらもクリント・イーストウッド監督作品ですが、そのうちの1本は日本側の視点から硫黄島の戦争を描くものです。本書は映画の原作ではありませんが、硫黄島総指揮官・栗林忠道中将を演ずる主演の渡辺謙さんは、役作りのためにハリウッドの撮影現場まで本書を持ち込み、まるで「バイブルのように」熟読したそうです。栗林総指揮官をはじめ、日本の将兵が圧倒的な物量を誇る米軍に包囲されるなかで、どんな思いを抱いて最期を迎えたのか。戦争がもたらす無残と極限状況での人間の真情の美しさを、多くの読者にぜひ知っていただければと切望しています。再び悲劇を起こさないためにも、あの戦争から遠くはなれた世代ができることは、彼ら将兵の願いを引き継ぎ、忘れずに覚えておくことではないか、そしてそれは、戦争を歴史を国家を考えていく上での立脚点になるのではないかと信じているからです。

著者について

梯久美子(Kakehashi Kumiko):1961(昭和36)年、熊本県生まれ。北海道大学卒業後、フリーライターとして、新聞、週刊誌などで数多くのインタビューや取材記事を手がける。『AERA』誌「現代の肖像」欄では、レギュラー執筆陣の一人として人物ルポルタージュを執筆。書籍の編集も手がけ、吉本隆明氏の『ひきこもれ』『超恋愛論』(大和書房)では聞き書きを担当した。本書は初の単行本である。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

梯 久美子
1961年、熊本県生まれ。北海道大学卒業後フリーライターとして、新聞、週刊誌などで数多くのインタビューや取材記事を手がける。『AERA』誌「現代の肖像」欄では、レギュラー執筆陣の一人として人物ルポルタージュを執筆。書籍の編集も手がける(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

抜粋

  プロローグ

 その電報のことに話が及ぶと、それまで饒舌だった彼がしばし沈黙した。そして、つと姿勢を正し目を閉じて、85歳とは思えぬ張りのある声で誦したのである。

   戦局 最後の関頭に直面せり
   敵来攻以来 麾下将兵の敢闘は
   真に鬼神を哭なかしむるものあり

 85歳と79歳の夫婦が肩を寄せ合うようにして暮らす家の居間には、南国・高知のおだやかな陽光が差し込んでいる。座り心地のいい古びたソファには、東京の孫から「ペット代わりに」と送られてきたというロボットの犬が、箱に入ったまま置かれていた。「どうも、この年になると説明書が読めんでな」さっき、そうぼやいたのとは別人の声で、彼は続けた。

   特に 想像をこえたる物量的優勢をもってする
   陸海空よりの攻撃に対し
   宛然 徒手空拳をもって よく健闘を続けたるは
   小職みずから いささか悦びとするところなり

   しかれども あくなき敵の猛攻に相次いで斃れ
   ためにご期待に反し
   この要地を敵手に委ぬるほかなきに至りしは
   小職のまことに恐懼に堪えざるところにして
   幾重にもお詫び申し上ぐ

   今や弾丸尽き水涸れ
   全員反撃し 最後の敢闘を行わんと………

 声がわずかにかすれ、時ならぬ朗誦は唐突に途切れた。
 我に返った顔で私を見て、照れたように口元をゆるませた彼は、すぐに真顔に戻り、
「この電文は私にとって、お経のようなものなんです」
 と言った。
「うちの閣下が、最後に遺した言葉です。今もこうして、口をついて出てきます。一言一句、忘れることができんのです」
 彼、貞岡信喜がと呼ぶのは、太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島の総指揮官として2万余の兵を率い、かつてない出血持久戦を展開した陸軍中将、栗林忠道である。
 周到で合理的な戦いぶりで、上陸してきた米軍に大きな損害を与えた栗林は、最後はゲリラ戦に転じ、「5日で落ちる」と言われた硫黄島を36日間にわたって持ちこたえた。
 貞岡が誦したのは、その栗林中将が玉砕を目前にした昭和20年3月16日、大本営に宛てて発した訣別電報の冒頭である。
 米軍の中でも命知らずの荒くれ揃いで知られる海兵隊の兵士たちをして「史上最悪の戦闘」「地獄の中の地獄」と震えあがらせた凄惨な戦場。東京から南へ1250km、故郷から遠く離れた絶海の孤島で死んでいった男たちの戦いぶりを伝えんと、みずからも死を目前とした指揮官は、生涯最後の言葉を連ねたのだった。
 硫黄島は、はじめから絶望的な戦場であった。
 彼我の戦力の差を見れば、万にひとつも勝ち目はない。硫黄島の日本軍にはもはや飛行機も戦艦もなく、海上・航空戦力はゼロに等しかった。
 陸上戦力においても、日本軍約2万に対し、上陸してきた米軍は約6万。しかも後方には10万ともいわれる支援部隊がいた。日本軍の玉砕は自明のことであり、少しでも長く持ちこたえて米軍の本土侵攻を遅らせることが、たったひとつの使命だった。
 そんな中、自分の部下たち30代以上の応召兵が多数を占め、妻子を残して出征してきた者が多かったが「鬼神を哭しむる」、つまり死者の魂や天地の神々をも慟哭させずにおかないような、すさまじくも哀切な戦いぶりを見せたことを、せめて最後に伝えようとしたのである。
 その部下の中に、貞岡は含まれていなかった。
「閣下のもとで死にたい」。26歳の青年だった彼は、どんなにそう願ったかしれない。だが、それは叶わなかった。
 彼は、軍人ではなく軍属であった。軍属とは、軍の勤務に服する身であるが、戦うことが任務ではない人たちのことである。
 硫黄島玉砕からさかのぼること3年半。栗林が南支派遣軍(第二十三軍)の参謀長として広東(現在の中国・広州)にいた昭和16年、貞岡は、将校の衣類の修繕をする縫工部という部署で働くことになった。
 ある日、栗林のもとで働いていた事務方の軍属がやって来て「参謀長がワイシャツを作ることはできないか訊いておられます」と言う。縫工部が扱うのは基本的に軍服で、それも、つくろいものがほとんどである。ワイシャツを仕立てられる者はいなかった。
 しかし貞岡は内地から持ってきていた自分のワイシャツをほどいて研究し、「私ができます」と申し出た。これがきっかけで栗林の私室に出入りし、親しく声をかけてもらうようになる。
 といっても、当時50代初めの少将だった栗林と、裁縫係にすぎない20代の貞岡には天と地ほどの身分差がある。しかし栗林は、四国の田舎の出身で、成績はよかったものの進学できる環境になく、「大陸に渡って広い世界を見てみたい」と南支派遣軍の軍属に応募してきた貞岡に目をかけ、実に親身に接したのである。

 高知市の中心部、はりまや橋にほど近い自宅に貞岡を訪ねたのは、硫黄島玉砕から59年が経とうとする平成16年2月のことである。
 あるきっかけから栗林中将に興味を持ち、調べるほどに心惹かれるようになった私は、彼と縁の深かった元軍属の男性が健在であることを栗林の遺族に教えられ、連絡を取ったのだった。
「うちの閣下のことを好きな方なら、私にとって家族と同じです」
 そう言って歓待してくれた貞岡は、1枚の写真を出してきた。昭和18年、広東の南支派遣軍の駐屯地で撮られたものだという。
 場所は兵舎の庭であろうか。白いカバーの掛かった椅子が置かれ、軍服に長ちよ靴うか姿の栗林が軍刀を手に座っている。横には軍用犬のジャーマン・シェパード。そして、後ろに立っている5人のうちの一人が、若い日の貞岡である。
「写真を撮ることになったとき、閣下がとおっしゃって、敷地内の宿舎にいた私のところに使いを出してくださったんです。この写真を撮った庭から宿舎まで、全速力で走っても往復15分以上かかります。その間、閣下は私が来るのを待っていてくださったんです」
 陸軍少将が裁縫係を15分も待つなど、普通ならまず絶対にありえないことである。しかし栗林は、写真を撮ってもらうという当時めったになかった機会を、田舎育ちの貞岡に与えてやりたかったのだろう。写真の中で、緊張した面持ちの貞岡は、栗林のすぐ後ろにかしこまって立っている。
 階級社会の最たるものである軍隊にあって、目下の者に気さくに接する栗林は異色の将官だった。入院した兵がいれば、みずから車を運転し、果物などを持って軍病院に見舞った。マラリアにかかった兵には氷を届けた。
 しばしば同行していた貞岡が、ある日、
「閣下みずからのお見舞いとあっては、病人も恐縮してしまって、おちおち寝ていられないのではないですか」
 と冗談交じりに言うと、その時は笑うだけだったが、次からは門の前で車を停め、貞岡に見舞いを届けさせて自分は待っていたという。
 そんな栗林を貞岡は実の父以上に慕い、昭和18年6月、栗林が中将に昇進して東京の留守近衛第二師団に転任することが決まると、自分も転属願いを出してついて行ったのである。
 しかしその1年後、総指揮官として硫黄島へ赴くことが決まったとき、栗林は貞岡の同行を許さなかった。
 思いつめた貞岡は、栗林が硫黄島に出陣した昭和19年6月から2か月たった8月、「閣下を追いかけて」硫黄島の北約270kmにある父島行きの船に乗る。硫黄島は小笠原諸島のほぼ南端に位置する島で、行政上は東京都に属する。小笠原諸島の政治・経済の中心は父島で、当時も本土と輸送船の行き来があった。
 とにかく栗林のもとへ行きたい一心で、東京から横浜まで夜を徹して歩いた。そのまま港で1週間ほど待っていたら、父島行きの船があった。
「私は栗林閣下の軍属ですから、閣下のもとへ行かせてもらいます」
 そう言って、船に乗り込んだのだという。
「書類や許可証? そんなものは持っていませんでした。じゃあなぜ乗せてもらえたのかと言われれば、私にもわからない。戦局も悪化していましたから、どさくさに紛れてもぐり込めたんでしょう」
 父島に着き、やっと通じた無線電話で話すことができたとき、栗林は「そんなところで何をしておるか。絶対にこちらに来てはならん」と声を荒らげた。
「うちの閣下に怒鳴られたのは、あとにもさきにも、あのとき一度きりでしたなあ」
 それが栗林の声を聞いた最後だったと言って、貞岡は涙ぐんだ。
 父島にはその年の12月までとどまった。栗林は東京の留守宅の妻にあてた手紙の中で、貞岡のことにふれて次のように書いている。

 貞岡は最近便で内地に帰るそうです。せっかく来たが私の許もとまで来れず、それに病気になって入院もしたりで、帰る気になったのです。東京へ着けば無論立ち寄るだろうから、その節は玄関だけにせず、何でもあるものを振舞ってやって下さい。やがては田舎に帰るのだそうです。 (昭和19年12月11日付 妻・義井あて)

 無駄に死なせてはならぬとの思いから追い返したが、やはり、遠い南の果てまで追いかけてきた若者のことが心にかかっていたのだろう。わずか11日後の手紙で、栗林はもういちど貞岡のことにふれている。

 せっかく来たのに私に会えずに帰還し、結局、郷里に帰るのだと思う。戦争というものはみんなそうしたものだ。 (昭和19年12月22日付 妻・義井あて)

「せっかく来た」という言葉がふたたび使われている。ただひたすら自分に会いたくてやってきた貞岡の思いを、栗林は誰よりもよくわかっていたのである。「戦争というものはみんなそうしたものだ」との言葉には、軍人らしい諦観というよりも、自分自身に言い聞かせているかのような切実な響きがある。
 その後、東京にぶじ着いたという知らせを受け、栗林は硫黄島から次のような便りを貞岡に送っている。

 拝復 東京からの葉書着きました。当地でお会いできなかったことは残念ですが、ご無事ご帰還になったことは何よりと存じます。東京で留守宅の世話までして下さるようなお話ですが、ご厚情の段、深く感謝します。
 小生もその後相変わらず非常に丈夫かつ元気で働いていますからご安心下さい。内地は寒いでしょう。どうぞ風邪などひかぬようご用心下さい。ではさようなら。

 無線電話で怒鳴りつけたときとはうって変わったやさしい文面である。年若い軍属に宛てたものとは思えない丁寧な言葉遣いのこの便りは、「軍事郵便」の文字が印刷された葉書に、端正な毛筆で認められている。60年近い歳月を経て黄ばんだ葉書は、貞岡の自宅の金庫に今も大切に仕舞われてある。
 この便りが書かれたのは、米軍による空襲や艦砲射撃がいよいよ激しさを増していた昭和19年12月末である。それから2か月もたたない翌20年2月19日、米軍は硫黄島に上陸を敢行する。栗林が戦死したのは、3月26日の払暁とされている。
 貞岡がついに硫黄島に渡ることができたのは、栗林の死から33年を経た昭和53年のことである。硫黄島は戦後23年間米国の占領下にあり、昭和43年に返還されるまで渡島はできなかった。
 慰霊巡拝団の一員として渡島した貞岡は、案内の人が栗林が潜んでいたと言われる司令部壕を指さしたとき、思わずその方向に駆け出した。
「閣下ぁー、貞岡が、ただいま参りましたーっ!」
 声を限りに、そう呼びかけながら。

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