ボルノウはマックスボルンの弟子であった。そして、当時の物理学の先端分野であった量子論を駆使する結晶格子の研究をしていた。そこには「波のように『連続』であり、粒のように『非連続的』に振る舞う」光や電子の自然界における矛盾する現象を統合するハイゼンベルグの量子力学的世界観が根底にあった。
しかし、やがて出版されたハイデッカーの「存在と時間」に影響され、弟子となり2ゼメスターの間を直接に習い。当時軍務に服役して、死の恐怖と生の意味を深く考察することになる。
そこから、すでに自然世界に向けての自然現象への解釈という物理学的視点は、人間へ向けての「現象学」と「解釈学」という哲学に移され、さらには実存哲学の影響をうけ独自の哲学的人間学になった。その実践的方向にはカント哲学を反転させたようにも見える「空間を優位的に扱う哲学」をもとにした実存と気分の人間学的な教育学がある。
本書は彼の教育学の到達点とも言える。「教育を支えるもの」=「教育における『気分』の人間関係論」=「教育的雰囲気の重要性」である。
教育を取り巻く環境をとらえ、教師や生徒にとってその支えとなっているものは何かを示している。それは、本来的な人間に必要な、人間としての立場をとらえた人間学的教育学の成果であり、教育現象が先駆性に囚われ、受験競争など市場淘汰性を帯びた(ドゥルーズ的にみても社会機械に懐柔される)高度資本主義に人間がいる限り、今の教育現場を支えるのに必要な基本的なものとは、先駆的時間性よりもむしろ「空間的被包感」といったものであることを再認識させる。(「空間的被包感」というものが、教室や家庭にはある。教育時間でも、家時間でもなく、教『室』、家『庭』なのだ。私個人的には、先駆的時間性とは実に孤独だ、人に先駆けて学ぼうとさせる受験勉強は孤独な戦いだとと思う、空間的被包感は人間関係を醸成する場の概念だと思う。)
どんなに、時間に追われていても、社会があわただしさをまして、落ち着かずにいて、時間の速さというまやかしに焦ってそこに人間が隠されていても、われわれはこの空間の視点に気づき、忘れてはいけないと思う。