金子達仁が一般的に知られるようになったのは、「28年目のハーフタイム」だったであろう。
あのときには、本格的なスポーツライターの誕生として各方面で絶賛された。
その後、「決戦前夜」が出された。
この本は中田英ら一部の選手に偏った見方が随所にあったが、それでも取材をしようとする意図は見られた。
今の彼は、年に数度もスタジアムに行かず、テレビ観戦(それも、阪神戦を優先することさえあるという)で、自己満足の文章を書き殴り、醜態をさらしている。
いったいどうしてこうなったのか。
どこで、「それは違う」と言うべきだったのか。
仲がよい一部の選手を特別扱いすることに恥じなくなってきたときだろうか。
知りもしないスポーツを、ろくに前取材もせずインタビューだけで本にしだした時だろうか。
批判だけしていれば金になると言うことに気付きだしたときだろうか。
わざわざ日韓W杯の際、韓国に行きながら、開会式をテレビで見ていたときだそうか。
今回のW杯の結果は、かつてのオウム事件と同じように、ジャーナリストの質を洗い出す事になった。
金子や杉山が、まっとうなジャーナリストとして扱われることは、今後一生ないだろう。
それ自体、基本的には彼ら自身の責任である。日本のサッカー界のためには、もう駄目になってしまい、改善の傾向も見られない人間は、淘汰された方が良い。当時は絶賛された金子の取材力も、現在では彼程度の新人はいくらでもいる。
それでも、金子が持ち上げられ、充分な批判を受けられなかった(そこには、批判を受け付けない、彼自身の性格が多分に影響しているにせよ)ことにより、「将来性のあるジャーナリスト」から、「誰にも読んでもらえない駄文書き」に堕してしまったことは、忘れるべきではない。
言論は聖域ではない。協会や選手を批判するように、もしかしたらそれ以上に、言論人も間違った事を言えば批判され、謝罪するのが当然であるという考えを持つべきである。