身体が何となく熱っぽい。真っ白い梔子でもなく、沈丁花の強い香りとはさらに違う、たわわに黄色い花房を垂れるあの樹の甘ったるい匂いの中を歩くと、暑くもないのに汗がにじみ出る。仕事部屋に入ったとたんに、くしゃみを立て続けにした。風邪を引いたのかも知れない。洗車ホースの水に濡れそぼったコール天のズボンのまま、電車やバスに乗ったり、講習を受けたりしたせいだろうか? 脛や膝が冷たく冷えて、ぼくはその骨に齎す悪影響のほうをむしろ気にしていたのだが。
端末を立ち上げながら、タバコをくゆらして考えた。
《あと三時間弱だと、これから創作に取り組むには短すぎるし、むろん新たな翻訳に掛かるにも半端な時間だ》
そこでぼくはいわゆるおさらい、手習いにこの半端な時間を充てることにした。パヴェーゼの原文を打ち込むと、到底手許を見ずに打ち込むほどにはスピードは回復しないけれど、その代り、パヴェーゼの真意が垣間見える刹那がある。昔の人が唐詩選を筆写させ、声を出して暗誦させたのはそれなりに理由のあることだった。指と声を通して身体に入った詩文はその人の血となり肉となるのである。しばらくすると、さらに原文の上に先生の訳文を打ち込んで、対置させて、その距離を測る。いつもひどく感心させられてしまうのだが、ぼくは一旦これを忘れて、いずれおのれの訳文を創り出したいのだった。
《 ときどき、折をみて、ぼくは自分の意見を言った。
Di tanto in tanto, all'occasione, dicevo la mia,
前にもタリーノに言った覚えがある。
perche' l'avevo gia` spiegato a Talino,
谷底の井戸のなかで仕事をしているところを見た証人がいる以上、
che se uno l'hanno visto lavorare dentro un pozzo a fondo valle,
丘の上の火事を彼のせいにするのは少し無理だろう、と。
e' un po' difficile accusarlo di un incendio su in collina.
しかし近在を旅してまわり、タリーノにも腕のたつ蹄鉄工と認められているそのベルトという男は(彼はぼくと同じ名前だった)、
Ma quel Berto (si chiamava come me) che quei paesi li aveva girati e si maneggiava Talino da buon maniscalco,
月もないのに夜の井戸のなかでタリーノの顔など見えるわけはないが[夜の井戸のなかではタリーノの顔はおろか、月さえ見えるわけはないが]、無罪放免になったからには、もう安心だ、と何度もタリーノに繰り返した。
tirava a ficcargli in testa che adesso stare tranquillo, visto ch'era prosciolto, perche' in un pozzo di notte non si vede neanche la luna, nonche' la faccia di Talino.
「えっ、夜だったのか?」とぼくは言う。
- Perche', e` stato di notte? - dico io.
「そうともよ、このばか、夜だからひとに見られた方が良いのに、逆に井戸のなかに隠れたんだ」
Sicuro, questo goffo, per farsi vedere di notte, va a nascondersi nel pozzo -.
ようやく、タリーノがつきまとって少しも離れなかったことに、ぼくは気づいた。
Allora mi accorsi che neanche un momento Talino aveva smesso di lavorarmi.
やがて誰か[少年/相棒]があの男を呼びに来る、しかし彼はテーブルで待っていろ、とぼくらに言う。
Poi quell'altro lo chiamano, ma ci dice di aspettarlo al tavolo.
―― Cesare Pavese 《Paesi tuoi 》Einaudi 河島英昭訳『故郷』晶文社(*[ ]内は筆者記す。)》
あともうひとくさり、やってみようか。原文にしろ訳文にしろ、手が遅くなれば、到底スラスラとは打ち込めないし、読み進めない。それが考える余裕を生む。ふだん何気なく読み進んでしまう箇所でも、立ち止まって考えてみる、まさにそれこそが狙いなのだから。
《「おい」ぼくはタリーノに言う、「なぜ家が焼けたのは夜だとぼくに言わなかったんだ?
- Senti, - faccio a Talino, - perche' non mi hai mai detto che quella casa e` bruciata di notte?
それがおまえのやり方か?」
Sono figure da far fare?
「だけど、おれは昼間って言ったかなあ?」と彼はたずね返す。
- Perche', ho detto di giorno? - chiede lui.
「まあいい。これからどうする、三リラで飯が食えるか?」
- Lasciamo perdere. Adesso come si fa, con tre lire, a mangiare?
「ベルトと食おう、あいつはモンティチェッロに来るといつもおれの家に泊まるんだ」
- Mangiamo con Berto, che quando passa a Monticello dorme sempre in casa nostra.
首の汗を腕でふきながらベルトが戻ってくる、そして戸口で何か叫んでいる。ぼくらはミネストローネを注文する。
Torna Berto asciugandosi il collo col suo braccio e gridando sulla porta, e comandiamo il minestrone.
「田舎料理だが」とぼくに言う、「スープの少しぐらい飲まなくちゃ」
- Roba da campagna, - mi dice, - ma un po' di minestra ci vuole.
「一年じゅうまわっているのですか?」ぼくはたずねる。
- Girate tutto l'anno? - gli faccio.
「さあ」とうながしながら、彼はパンを砕く、「馬だって食べさせなくっちゃ。
- Andiamo, - dice, rompendosi il pane, - il cavallo ha bisogno di greppia.
ここいら辺の道はトリーノとちがって、雪の天下なんだ。
Queste strade non sono Torino, e ci regna la neve.
十一月に、タリーノがぶどうを売るころ、最後の仕事まわりに出るんですよ。
Faccio l'ultimo giro a novembre quando Talino vende l'uva.
私が集金にいくころにはこいつの親父がどんな顔をするか、見てやって[ひとつ訊いてやって]おくんなさい」
Domandategli che faccia fa suo padre quando passo a incassare.
――Cesare Pavese《Paesi tuoi 》Einaudi河島英昭訳『故郷』晶文社(*[ ]内は筆者記す。)》
ついでだからあとひとつ、やってみようか。
《「今年はスープ二皿分の貸しもつくだろうし。
- Quest'anno avanzerete anche due piatti di minestra.
ぼくら、一文無しでモンティチェッロへ行くんですよ」
Andiamo a Monticello pelati come la mano.
彼は、口をもぐつかせて、「それだけ足どりも軽いというわけですね。あなた、御商売は何です?」
E lui, masticando: - Si va piu' leggeri. Che mestiere fate?
「車なしの自動車修理工」
- Meccanico senza macchine.
ベルトはタリーノをみつめてから、ぼくに言う。「で、モンティチェッロに車を探しに行くんですか?……
Berto guardo` Talino e poi mi dice: - E andate a cercarle a Monticello?...
あなたも許可証で汽車に乗っているくみですか?」
Viaggiate col foglio anche voi?
ぼくはちゃんと切符を見せてやる。
Gli faccio vedere il biglietto.
「結構なご商売ですね」とベルトが言う、でもあそこじゃむずかしいでしょうなあ。
- Lavolo interessante, - dice Berto, - ma farete fatica a ritrovarvi,.
自転車とオートバイぐらいでしょう、
Biceclette e motori.
冬のあいだは馬やわしら人間みたいにものを食べない、
D'inverno non mangiano come il cavallo e noialtri.
働きも倍はある、だけどここいら辺の連中ときたら頭がかたいから」
Si lavorerebbe il doppio, ma qui non le capiscono.
――Cesare Pavese《Paesi tuoi 》Einaudi河島英昭訳『故郷』晶文社》
ふうっ、疲れた。微熱のせいか、あまり集中できない。
「あっ、もう十一時半だ!」
ぼくは慌ててセーブし、電源を切り、仕事場を出て鍵を閉める。急いで帰宅し、髭を剃る間もなく着替えて(髭面でも洗車には別に支障ない)駅に急ぐ。中野行最終発まであと一〇分足らずだ。零時二十三分発のこれを逃すと、あとはもう武蔵小金井止まりの文字通り最終電車一本だけで、二駅分余分に歩かねばならない。半袖ワイシャツはボタンを留めずに引っ掛けただけなのに、汗が滴る。これで走ったらどうなることやら。もう何年も走ってないことだし。睡眠不足を少しでも補うために、電車の中では本を読まずに眠ることにしよう。乗り越しのリスクはあるけれども。
こうしてぼくの洗車屋第二日目が始まった。
(『ある洗車屋の一日』http://arusennsyaya.blogspot.com/初出)
(『流離譚‐本と絵と見えない恋と』初出http://ryuritann.blogspot.com/)
愛しいひと 蜘蛛の巣の小道 (1977年)古代人の遺言―ピラミッド・ミステリー叙事詩の精神―パヴェーゼとダンテ