語るべき著作への思いと距離のとり方において類まれな美しさと説得力をもつメルロ・ポンティ論「受肉の迷宮」、その冒頭でサイードが要約してみせた直接的経験の復権こそは、はからずしもこの本の通奏低音をさし示しているのだと思うけれども、その経験の重視とは、サイードにとっては自らの故国喪失の経験において他になく「奇妙な魅力に充ちているが経験すれば地獄になる」事態に他ならないのだろう。マラルメを引き合いにだし自己の経験を、あるいは人生をひたすら遠くに押しやり、何かが書かれているが何も意味しないテキストを目指す文学的モダニズムのある傾向について、おそらく「帝国」の存在と活動が引き金になっているのであろう二十世紀における人々の大量移動は、それらモダニズムとははっきり違ったアポリアを、記録し表現する者たちに課したのだとサイードは確信している。直接的・歴史的経験の復権は、そのまま「受肉の迷宮」にさまようあやうさを引き受けざるを得ないのだが、その扉はコンラッドによって最初に開かれ、そして今、もっとも才能ある作家たちによって大きく開かれようとしている、とサイードは言う。
それら悪戦苦闘する作家たちの一人、V. S. ナイポールについての一章は、多くのナイポール批判の文章の水準を大きく越えるものではない。つまり、彼の最初のイスラム紀行について、イスラム世界についての基本的知識の欠如・誤認、偏見とも言えるナイポールの固定観念を批判・検討するが、それは誰にも反論の余地のあまりない事実だろう。しかし、ナイポールの著作の魅力を充分に説明するには到っておらず、サイードともあろう明哲の人がそれに気付いていないはずもなく、とすれば立場が先行した政治的テキストという印象が免れがたい。サイードの政治性がどうしても気になるのであり、それについてルカーチ論「偶然性と決定論のはざま」を今一度読み返したい、と思っている。