柄谷は他者と《他者》を区別し、前者を自己との対称性に基づく他者、後者を自己との非対称性に基づく他者と定義する。柄谷によれば、内省から出発する従来の哲学は自己と他者の対称性を前提とする「話す‐聞く」モデルを暗黙のうちに採用しているが、そこで見出される他者は自己と同じ言語ゲームに属している他者であり、結局のところ他者はもうひとつの自己にすぎなくなる。その点で従来の哲学はモノローグ的な独我論におちいっている。
それに対して柄谷は、自己と他者の非対称性を前提とする「教える‐学ぶ」モデルに依拠することで《他者》、すなわち他者の他者性を回復させようと試みる。この《他者》は自己と同じ言語ゲームを共有しない他者であり、自己の外部に位置する他者である。このモデルにおいては「教える」自己と「学ぶ」他者のあいだに根本的な非対称性(「命がけの飛躍」)が措定され、そこではじめて非対称的な自己と他者とのあいだの対話(イロニー)について考察することが可能となる。
柄谷はこうした独我論から対話へのモデル転換の契機をデカルト、キルケゴール、マルクス、ウィトゲンシュタインのなかに見出す。その論理的切り口と接合方法は鮮やかで、現在、独我論や他者といった問題を考えようとするなら、この著作で提起された視点を避けて通ることはできない。