押井は、人類が言葉で思考し始めたときから、人類は身体からの離脱を始めたと考える。
「たぶん自分の存在だとか、端的に自分の身体っていうことについて、実感に欠けている人が多いんだと思いますよ。結論からいうと、みんな身体がないんだと思う。」
「さらに大それたことをいえば、人間が生きてきた何万年もの話をしたいんです。」(押井守「身体と記憶の彼岸に」、本書25、45ページ)
言葉から始まった文明とは身体からの離脱である。逆にいえば、野性とは、身体である。
「犬とか動物の世界だと、思いと身体が絶えず一致してて、離れない。つまり自意識がない、無意識で生きてるってことですよね。でも、人間はたぶんそっちには行けない。人間である以上必ず自意識はあるわけだから(笑)。自意識があるってことは、必ず自分の身体を外部化しちゃう。」(押井守「身体と記憶の彼岸に」、本書31ページ)
動物と人間の違いは、言葉(文明)を持つか否かということであり、言い換えれば、身体を持つか持たないかということだ。身体を持つ生き物が野生であり、身体を持たないのが人間である。
20世紀、 人類は、サイバースペースという身体なき空間を発見した。 身体性を持たないサイバースペースにおいて、人はアイデンティティの混乱を経験する。「私は誰か?」「あなたは誰なのか?」
「個々人がネットワークを介して接続されているサイバースペースでは自他の境界は実質的に無効になってしまう。内爆発により、自己は拡張もされるが、同時に自己存立の根拠も失われる。」(櫻井圭記「ロボットたちの時間:『攻殻機動隊』世界におけるロボット観」、本書149ページ)
サイバースペースでは、身体は意味を持たない。同時に、 身体を失えば、 究極的に「自己」も消滅するはずだと押井は考える。
「都市っていう環境自体が自分の身体になっているんだと、情報も含めて。…自分の記憶を外部化して、共有することも可能になった。ネットなんか見てると、まさにそうですよ。記憶の集積。何でも任意に選ぶことができる。それなら他人を演じることも可能ですよね 。」(押井守「身体と記憶の彼岸に」、本書34ページ)
「人間性を肉体から分離し、結晶化させようとする視点は、この『イノセンス』の中でも脈々と生き続けている。」(池田憲章「流れよ我が涙、と人形はつぶやく」、本書60ページ)
人間から身体がなくなったとき、自己を自己たらしめるものは、一体なんだろうか。
ところで、夢のようなサイバースペースでは、現実感も喪失する。 押井の心の中で響き続ける禅問答は、「この現実はひょっとすると夢ではないのか」というものだ。
「(『天使のたまご』には)宇宙全体が神の夢であるという発想が、はっきりと出ています。」(四方田犬彦、本書207ページ)
夢の中にいるときは、それが夢であることはわからない。 そのような不安感は、『アヴァロン』のラストにもよく現われている。
『うる星やつら2・ビューティフルドリーマー』も、押井守に対する評論で必ず取り上げられる作品だ。テーマは、夢だが、「この現実は、実は夢ではないのか」という漠然とした不安感が根底にあり、身体の喪失をテーマとする『攻殻機動隊』や『イノセント』とも通ずるものが基底にある。ヴァーチャルリアリティが、現実よりもリアルになりつつある21世紀における「アイデンティティの喪失」を扱っているのが、押井 守であろう。
ところで、人形を見たときにどきっとするのは、私たちの似姿をそこに発見するからだ。人形は意志を持たない。現代の組織社会の歯車の一つに過ぎない「私」も、実は自身の意志を持たない人形なのだ。
「我々は人間らしくない。まるで人形じゃないか。」(池田憲章「流れよ我が涙、と人形はつぶやく」、本書63ページ)
押井が『攻殻機動隊』や『イノセント』で言わんとしたことはおそらく次のようなことだろう。
草薙素子やバトーは、国家公務員=人形であるが、まるで人形のピノキオが人間になろうとするように、人間になろうとする。草薙素子やバトーは、人形であることを拒否する。人形が人間になるために必要なのは、つまり「私」が「私」であるために必要なものは、押井によれば、「意志と主体性」なのだ。
「ゴースト−意志と主体性。それこそが重要なのだ。」
「他者など意味を持たない。己の主体性と意志−一方通行でも構わない「思い」だけが彼女(草薙素子)にとって重要になる。」(霜月蒼「WHAT GHOST IN THE SHELL?」、本書81〜82ページ)
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ところで、アニメ映画『イノセント』の宣伝のために作られたこの本に対する私の評価は低いのは次のような理由による。
この本は、公開前に作られたために、肝心の『イノセント』に対する評論がほとんど欠落している。 映画の宣伝ために出版するという、「本」の道具化に腹が立った。
『イノセント』については、この本を見てもわからないが、『イノセント』以前の押井守映画については幅広い知識を習得することは可能。が、分析は全般的に浅い。評論集ではなく、資料集である。
上に引用したように、ところどころに鋭い指摘や分析もあり、押井守を理解する一助にはなるが、余計な文が多すぎ。量も半分以下で十分だったろう。