「理性と論理は魔術をも打ち破る。必ず。そう信じることだ」(p100)。
魔術が跳梁跋扈する12世紀末欧州での殺人事件を、同じく魔術の心得がある騎士が推理する>という舞台で描かれたのは、魔術を踏み台とした論理と理性の賛歌です。
まず、魔術が絡んだ「何でもあり」に見える謎が急所を突いた簡潔な論理で見事に解かれ、その時読者の脳裏に浮かび上がる画の魅力が素晴らしい。
<二十年に渡り囚われ続けた不死の青年は、いかにして塔の牢獄という密室から脱出したのか?>
<蝋燭に火を灯せば姿を消せる、魔法の燭台を持つ盗賊のアリバイをどう証明する?>
謎は魔術によって怪しく彩られ、その分だけ、解き明かす論理の冴えを引き立てます。
しかしそれにも増して、解かれることで、各人の謎が各人の人間性や背景を鮮やかに語ることがこの作品のより大きな魅力。
例えば、解明と共に明らかになる「いずれ劣らぬ怪しげな傭兵たち」の内、幾人かの意地と屈折と誇りを目にしたとき、読者は彼らを好きにならずにはいられないと思います。
また、(詳細は省きますが)この作品は容疑者が魔術によって「走狗」とされていることにより、ミステリとして、動機を問う「ホワイダニット(Why(had)DoneIt)を綺麗に取り除いている>ことに一つ妙味があるのですが、それによって喪われがちな物語の厚みをこうして補うところに、作者の技の冴えが感じられます。
また、この作品が描く論理と理性の賛歌とは、単に理屈に頼ることや、事態を解説するなどということではありません。
理性と論理を「掲げる」ということは、自らがそういう存在であろうとする、また、世界がより理性的、論理的であるべきだとする意志を持つということ。
この作品は論理の鮮烈さよりも、むしろ論理を扱う理性、その意志を称える力強さによって、より魅力的になっていると思えます。
<不条理と矛盾に満ちた世界の中で、論理が大きな「力」を持って立ち向かえる>というのは、(勿論全てではないけれど)少なくないミステリが共通して持つ志向であり、魅力です。
ただ、論理が「力」になる以上、そしてそれを振るうのが一人の人間である以上、それをどう用いるべきか、用いて良いのか。それを扱う理性が大きな問題となります。
この問題に対し過去の米澤作品、特に「古典部」シリーズの省エネ主義の折木奉太郎や「小市民」シリーズの二人などは、複雑な現代社会の中で、学生という保護された狭い世界に生きる立場と自覚から、大変消極的な態度が特徴でした。
一方、『折れた竜骨』ではそもそも存在自体が連鎖する矛盾の中にある騎士とその弟子も、領主の子であり女であることで責務を負いつつ将来を厳しく縛られた語り手も、論理を理性の下に扱い、意志をもって「力」とすることと、その責任に対し大変意欲的です。
その理性、意志の賛歌が最も鮮やかに表れているのは、病院兄弟団の騎士と暗殺騎士、各々の弟子との関係のそれぞれの結末を巡る描写の対比。
暗殺騎士の弟子の描写は極端に少ないのですが、鏡像の関係にある少年の描写を見ていけば、師弟の絆の重みは十分に察せられるところ。
そして、物語の敵役たる暗殺騎士も知識への探求欲ゆえに堕ちた人物であり、弟子ともども、論理と知性の信奉者に他なりません。
彼らの違いが、どこで際立つか。論理と知、そのもたらす力を扱う理性とは、どうあるべきか。
物語はそれを、鮮やかに示します。
そんなわけで、この作品は過去の米澤作品と比べてただ舞台設定だけでなく、その積極的な意志のあり方、描き方から見ても新境地であり、過去作品を踏まえるとなお面白く読めもする意欲作だと思います。
一方で、初米澤作品として勧めるにも十分過ぎるほどに楽しいミステリであり、冒険小説でもあり、少女と少年の成長物語でもあります。
『折れた竜骨』、傑作です。