これは一編の悲歌である。記紀の記述により、日本武尊と仲哀天皇の遠征による輝かしい武勲をたたえつつ、相聞歌に彩られた悲しい恋の運命を、そして何よりも日本武尊の壮絶な死がこのエッセを思想にまで昇華している。そこでは大和に育った著者保田與重郎のよく咀嚼された歴史的、地理的知識の深さを見ることができる。日の本の子を自覚する保田には、このエッセを書くことは運命的に正統ととらえていたのだと思う。
戦前文壇の日本浪曼派の中核にあった保田の思想的特徴は、「悲劇に美」を見ることをこえて、「美」しくあるためには悲劇が必要である。悲劇の主が英雄であればあるほど悲劇は倍加して美しいというものであった。このような保田の文学の基底をなすロマンティーク・イロニーは、ドイツ・ロマン派の影響を受けつつ、日本独特の「あはれ」といった情緒を加味して創成した保田の独壇場である。ことに時代は1930年代であり、悲劇を体現する者はすでに限られていた。保田はおのれの「美」を体現出来る者として,白馬にまたがった雄々しき昭和天皇の姿を想像しなかったとは言い切れまい。第2次大戦の末期に保田が公安当局にマークされていたのはあながち理由のないところではない。一方、戦没学生が多く保田の美学に最後の拠り所を求めて戦地に赴いたのもたしかであろう。保田の美学は予期せぬ多くの英雄を作り出そうとしていた。保田もまた三十六歳の老兵として中国に出征、野戦病院で終戦の玉音を聞いた。
戦後、保田は農の国日本を希求し絶対平和を唱えた。保田にとって、今までの文学活動全てが否定される瀬戸際にあり、彼自身の身の処し方によっては、自らの描く「美」を永劫に体現することもあり得たであろう。しかし、保田はそう はしなかった。日本浪曼派の末裔とも言うべき三島由紀夫の起こした騒擾に、保田は、英雄の悲劇を見たのであろうか。
いずれにせよ、本作は、通常いわれる保田の難解な論考の中では比較的読みやすく、複雑な保田イズムの萌芽の一つを確実に見出すことのできる良書である。