「大和」級戦艦の建造計画は当初4艦、着工は3艦だった。その1番艦「大和」は呉海軍工廠で昭和16年12月16日竣工。翌17年2月12日連合艦隊旗艦は「長門」から「大和」に。そして18年2月11日には「武蔵」に譲る。20年4月1日水上特攻部隊として沖縄突入を命じられ、昭和20年4月7日、九州坊ノ岬沖90海里で沈没した。伊藤整一第2艦隊司令長官、有賀幸作艦長以下2740名が戦死、生還は僅か269名だ。1208日間の短い生涯であった。当時の科学技術の粋を集めて建造された「大和」の構造を徹底的に解剖し、「大和」に関するトリビアが満載の本書だ。以下は私自身の備忘録として記録する。「大和」最大の特徴は、45口径46cm3連装砲塔だ。主砲塔3基の総重量は重巡1隻分ある。砲弾は全長が1.98m、3万m先の42cm装甲板を貫く。「大和」の建造費は推定142,877千円。昭和12年の国家予算が30.4億円だから約5%になる。2番艦「武蔵」は三菱長崎造船所で竣工、2年2カ月後の昭和19年10月24日沈没した。3番艦「信濃」は横須賀海軍工廠だが、戦艦建造中止後に空母で復活し、昭和19年11月19日に竣工。それから10日後の11月29日、潮岬沖で沈没した。発着艦なしの幻の空母で終わった。「大和」の定員表は未発見だが、「武蔵」(レイテ作戦時)は2399名が乗艦、准士官以上は112名(士官は37名)だ。トラック泊地の「大和」「武蔵」は艦隊決戦への温存の為と、燃料の節約の為に、戦場への出番はなくなった。沖縄特攻の「大和」には、当初連合艦隊提示燃料は2000tだったが、担当参謀が必死でかき集め4000tに、軽巡「矢矧」と大半の駆逐艦も満タンにした。切替られなかった大観巨砲主義、その終焉という悲劇に弄ばれ、制空権なき無力の制海権、「大和」と「武蔵」の悲劇はいつまでも心から消えない。