「言語活動のうち、なにが前景化され、したがって何が見えなくされたのか、問われるのは地平そのものの変動である」(p281)という言葉が本書の方法的基調を示す。戦後の文芸評論を主対象とし、「集合的記憶が表象される場」(p4)と位置づけた上で、その布置の変遷を分析する。ただし挿入された内灘論(書下ろし?)から察するに、著者は表象の根源にある暴力にも目配せしたかったようだ。
扱われている批評群を読んでみたい気にはさせられた。また「他者を代行することはできない」と述べた有島武郎を大正期的言説と対置しつつ「代行・表象」問題を提起した蓮實重彦に対し、「自分自身なら表象できるのか?」とやんわり問題設定の不徹底を示唆した第4章も悪くない(スピヴァクによるフーコー・ドゥルーズ批判の2番煎じではあるが…)。
だが正直な感想として、もう一つアクチュアルな感じがしない。あとがきによれば9・11テロ(2001)、米軍ヘリ墜落事件(2004)、東アジアの反日暴動(2005)等を受け、著者は各編初出に大幅改稿を施したという。初出との照合はしていないが、その改稿の成果について、率直なところ私は疑問だった。それに何より、文章に屈折や飛躍が多すぎて非常に読みにくい。この読みにくさは徴候的とさえ言える。
「批評空間」編集部から夏目漱石と大逆事件の関連をめぐる論争へのコメントを求められ、著者が02年4月25日付で書いた返書(web上で読める)の末尾に「編集部からは、ご不快かと思うが返事を、と配慮くださったが、不快ではなくただもうこわい」とある。その「こわさ」が、自分がメタヒストリーの語り手からアリーナへ転落することへの恐怖でなければいいが、と私は思ったりする。