第一章において、広島の平和記念資料館とアメリカのホロコースト博物館の語る戦争観の違いが分析される。そこで、著者は、その違いの原因を、単に「正戦」観念を孕むユダヤ・キリスト教の伝統と、日本の伝統・文化の違いに還元するのではなく、具体的にどのように「語り伝える」という行為が繰り返され、集合的記憶が形成されてきたのか、そこを丹念に分析するべきだと言う。この点、もっともだと思う。ある出来事から何を教訓として記憶していくかには、かならずその時の社会的条件が反映するものであり、現在を規定する歴史認識の拠って立つところを分析しようとするならば、「記憶化」の過程における政治的・社会的力学の分析が不可欠である。
と第一章で見事な問題意識を披露しているにも拘らず、続く二章以下での分析が非常に皮相なのが残念でならない。
第三章以下では、日米の戦争観が検討されるが、その分析は第一章での問題意識と裏腹にどうもステレオタイプの域を出ない気がする。戦争観の表れとして映画の分析がなされるのだがそれらも、どうとでも言えてしまいそうな曖昧なものである。本当にこのテーマに取り組むのであれば、遺族会や退役軍人会の動きや歴史教科書などといった様々な、「戦争を記憶」しようとする試みの相互の葛藤を丹念に追っていかねばならないはずであろうに。例えば、WW2後、米退役軍人たちは、軍人恩給によってマイホームやマイカーを入手するなど戦後の大衆消費社会の牽引役となっていく。このことは、戦争の過程=貧困化の過程であった日本とは、対照的な現象である。膨大な数の軍人達が、多額の恩給を手に、社会に戻り、新たな社会を形成していったこの過程に、戦争観の起源を求めていくと面白いかもしれないと思うのだが、どうでしょうか。
しかし、何はともあれ、国際政治学者がこういうテーマに目をつけるのは良いことだと思う。著者の今後の研究に期待したい。