イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい」(ヨハネ20:17)
死を前に、神の国を前に、すがりつく女、マグダラのマリアをイエスが振り払うこの
シーンがすべてを象徴するかのよう。
成熟とは、「近代」へと「自由」へと飛び出すこと、「母」を喪失すること、その喪失に
よって「母」を傷つけた罪を引き受けること。
「近代」において特徴的なこととは、例えば家や集落に代表されるかけがえのなさを振り
払い、例えばコンビニに象徴される匿名性、入れ替え可能性へと移行することに他ならない。
この移行に当たっても、「父」はなんら問題とはならない。なぜなら、家から社会へ、
「私」より「公」へ、というより大きなパターナリズムへと委ねられるに過ぎないから。
しかし、「母」についてはさにあらず。親族構造における交換に基づく接続記号として
存在を許されていた「母」は、その家が放棄されれば、必然的に死を迎える他ない。まさに
「女は存在しない」。
「母」の庇護を離れて独立する――「自由」とは苦しいもの、それゆえ「自由」を前にして
人はしばしば逃走を選ぶ。いわゆる団塊の世代がその自由を前にしながら、あるいは前に
するがゆえに、かえって異様なまでに保守的な家庭制度や道徳を好むのはまさにその実践。
戦後の小説から「成熟と喪失」を説く江藤の議論は極めてよく練られたもの(というよりも、
単に
小島信夫の小説があまりによくできているだけな気もする)。
しかし、これを近代を迎える日本に特有の現象と位置づけ、読み解いてしまうのは完全なる
ミスリーディングと言わざるを得ない。この主題は、世界中のほぼすべてのパターナリズムを
基調とする文化体系において、「近代」への移行が構造からして必然的にはらまざるを得ない
問題であって、日本とてその一例に過ぎない。事実、日本固有の「母」をめぐる江藤の特徴
づけはいかにも弱い。
そして蛇足ながらもう一点、
遠藤周作をめぐる「父」と「母」にも誤解があるようだ。
「神よ、神よ、なぜにわれ見捨て給うか」。
神はすべて人間を前にしては「無力な神」、踏み絵を甘んじて受ける神として現れる
他ない。
その結果として、人間は「神の国」を断念して、「この世」へと引き返すよう強いられる。
それはすなわち女の存在する世界、「母」への帰還。
「神の前で、神と共に、神なしに生きる」。