最近ちまたで目につくもの。反知性、あるいは反知性主義とでもいうべきスタイル。これはご当人にとってはセンスというものかもしれない。あまりにナイーヴ。あまりに素朴。知性とは、当然のことながら頭が良い悪いではない。学歴などでは些かもない。直面する問題や言説に対して、歴史に参照するという姿勢であり、夜郎自大な物言いに陥らないように警戒し、先人や他者に学ぶということだ。
本書は憲法第9条の源流を遥かに遡及して、突き止めようとする知性の書だ。
たまたま過日、某「公共」放送の番組で、評論家とともに一般人も討論に加わる番組を見ていた。テーマはまさに憲法第9条である。
例えば、集団的自衛権について、「友達が殴られていたら助太刀するのが友達というものだ」などといった、まことに素朴な「意見」を述べる男性がいた。また、日本国憲法に受け継がれてきた思想的なバックボーンを顧みずに(それを学ぼうともせずに単純に)、現状に合わないと平気で言う女性がいた。これらは「意見」というにも憚られる気がする。単なるフィーリングの吐露であるように思われる。
素朴、純朴、無知である。これは後半歩で無恥となる。こうした背景には、反知性主義という名の、おそらく世界的に跋扈している潮流がある。『アメリカの反知性主義』(みすず書房)というホーフスタッターの本によると、アメリカには地下水脈のように反知性があるという。果たして、日本にはそういうものがあったのか? そしていまはあるのか?
第9条は、それだけがスタンドアローンとして存在するのではない。それは過去の歴史的な経験、闘争、悲惨を経た思想的遺産、それら多くのものが結晶している。戦争と平和と一概に言うが、平和とは戦争が起きていない休戦状態のことをいうのではない。前文および25条に述べられている生存権と、万民が等しく恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生活する権利があるというときの「平和」をいう。恐怖と欠乏こそが戦争を産むのであることは自明だ。著者はこの延長上に、あるいはその理想を押し進めたところには「世界連邦」への希求があるとする。
憲法論議に多くの人が参加するのは必要なことだ。しかし、反知性のあまりに無知=無恥なおしゃべりだけでは憲法が余りにかわいそうだ。憲法を論ずる人には、読まれるべき1冊が登場した。