スティーブン・ダルドリー監督のこの映画『愛を読むひと』もまた、直接にナチズムとヒットラーを描いた映画ではありませんが、
1960年代のナチズムの戦争犯罪を裁いた「アウシュヴィッツ」裁判を背景としたもので、
やはり戦争と人間を描いた映画の一本としてあげなくてはならない作品ではないでしょうか!
15歳の少年、ミヒャエル・ベルク (脚本では少年はマイケル)は偶然 街中で知りあった熟女ハンナ・シュミッツの部屋に通され、
彼女の美しいトップレス姿と豊満な肉体をちらりとかいま見て、性に目覚める。
ポルノ映画のように解説すれば、それから後、21歳も年上の電車の車掌ハンナのアパートに足繁く通い、
性の手ほどきを受け、男の性の快感を開花させ、彼女の肉体に溺れてしまう…。15歳の少年の青い性、年上の女性との甘い情事の官能映画です…。
初めは、幼い15際の少年と、元収容所の女性看守ハンナとの倒錯した愛の物語であり、
「愛の嵐」に近い作品であるのかと思っていましたが、予想に反して、かなり真面目に正面から戦争犯罪を描いています。
どちらかと言うと、『シンドーラーのリスト』に近い作品、アカデミー賞を受賞してもいいようなヒューマン映画です。
映画は、1958年の第二次世界大戦後のドイツを舞台にしています。
表現をかえるならば、15歳のマイケルは、年上の女性ハンナと淡く美しい恋に陥る。
学校の帰り道にハンナの部屋に通い、夏休みにハンナと共に自転車で旅をし、ハンナとの情事にのめり込む。
そして、請われるままに始めた本の朗読によって、2人の時間はいっそう濃密なものになる。
ハンナはミシャエルに本の朗読を頼み、彼は学校の教材をベッドの上で、ホメロスやキケロやシラーを読んだ。
いつしか、朗読の後に情事…、それが二人の愛の儀式となり始める。
ハンナ役を、『タイタニック』のヒロイン、「ケイト・ウィンスレット」が演じ、
彼女に献身的な愛をささげる男を「レイフ・ファインズ」が演じています。
初め、ケイトが 『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』に出演するので、
ニコール・キッドマンがハンナ役で撮影がスタートしたところが、
2007年の撮影から5ヶ月後に、彼女の妊娠が発覚、再びケイトがハンナ役を演じることになったそうです。
この映画で私は、ベルンハルト・シュリンクの原作The Reader「朗読者」(新潮社、松永美穂訳)をかなり丹念に、ゆっくり読みました。
だから四点の疑問点を書いきておきます。
第一点。復活祭の次の週に、ハンナと共に四日間の自転車旅行をします。
郊外の田園、ヴィムプフェン、アモルバッハ、ミルテンベルクの宿に泊まりながら、親子を装う蜜月の旅をします。
映画シーンでは、ある教会の木製の椅子に座りながら、ハンナは突然、シクシクと泣き始めます。
何故、ハンナは教会の中で泣いていたのか? 映画を見ながら不思議に思った場面でした。でも小説を読んで初めて分かりました。
本当は、収容所や囚人たちの回想を挿入しないと、ハンナの涙の意味が分からないシーンです。
収容所から唯一生き残った母と娘が書いた手記が出版されていて、
戦犯裁判でも女看守たちの罪状を告発する歴史の証人とも証拠ともなっていました。
アウシュヴッツから爆弾作りに工場へ女性が送られ、さらに建設現場へと作業に繰り出されました。
そして、役に立たなくなった囚人は、現場より再びアウシュヴッツへ60人が送り返されました。
勿論、アウシュヴッツに送り返された女性には、ガス室で殺される命運がまってます。
その囚人の選別が、ハンナたち女看守の起訴理由の一つでした。
ある日、空襲で村が焼かれます。収容所の女性たちが閉じ込められていた教会の塔にも爆弾が落ち、
屋根が焼け落ち、頑丈な扉を残して建物が丸焼け、彼女たちの大半が焼死しました。
何故に、開放して救出しなかったのか?、どうして囚人を見殺しにしたのかが、起訴理由の二つ目でした。
さらにその後、収容所が閉鎖されて、雪が降る真冬に氷のはる道を、防寒着も靴もなく「死の行進」をさせました。
真冬に強行して歩かせたために、半分の女性が死にました。これが起訴理由の三つ目です。
自転車ツーリングのときに、教会の椅子で泣いていたハンナは、この過去の記憶に苛まれて泣いていたのです。
彼女が最後に首吊り自殺したのも、この「罪の意識」のためなんです。
自殺したハンナのことを収容所女所長と会話しているときに、小説でははっきりと、この「罪の意識」があったことを書いています。
ミヒャエルは、
『収容所や西への行進の際に囚人たちに対して犯した罪は意識していましたよ。刑務所でも最後の何年かはずっとそのことを考えていたようです』
と語っています。
小説の原作者ベルンハルト・シュリンクは、人間の善悪の意識に対して、≪性善説≫をとっています。
しかし、監督のスティーブン・ダルドリーと、脚本のデビッド・ヘアの視点は、映画を見る限りでは、この点が曖昧にされています。
次に第二点目は。何故、ミヒャエルは法律家でありながら、しかも真相を知りながらハンナに代わって、て刑期の軽減を弁明をしてあげなかったのか?
ハンナが文盲で、他の被告人たちがでっち上げようているような主犯ではなかった、彼女は有罪かもしれないが、
見かけほど重罪ではない…と思いながらも、裁判長のところに説得に行くかどうかを、最後の最後まで迷いながら、判断を保留していました。
彼自身は、法律の専門家でありながら、何故逃げてしまったのか?
ミヒャエルは、このことを悩み、哲学者で大学教授の父の元に相談に行きます。
『人格と自由と尊厳、主体としての人間、他人がよいと思うことを自分自身がよいと思うことより上位におくべき理由はまったく認めないね』
と、父は答えます。翻訳が悪いのか、哲学の門外漢であるためなのか、私には父の助言の意味が好く分かりませんでした。
つまり、自分で主体的に判断せよ!と言うのかもしれません。
小説のストーリでは結局、ハンナはそのまま判決を受容して、無期懲役に服し、恩赦で18年後に釈放されます。
第三点目は。ミシャエルが「アウシュヴィッツ」の旅を決意する映画シーンがあります。
これは小説にも映画にも描かれていますが、
しかし、この戦争犯罪に対するドイツ人の意識、戦争を知らない世代に戦争体験を文化遺産として残そうというドイツ人の≪良心≫が、
映画のキーテーマとして描かれていません…。
ともすると、エロチックな青い性の映画、ケイト・ウィンスレットの大胆なヌードばかりに眼を奪われて、映画の刺激的な話題ばかりが目立ちました。
私は、この映画はどちらかというと『シンドラーのリスト』に近い、戦争犯罪をテーマにした重い問いを投げかけるヒューマン映画ではないかと思います。
この映画をきっかけに、私も埃のかぶった本を引っぱってきて改めて読みました。
長田弘の「アウシュヴッツへの旅」(中公新書)と、フランクルの「夜と霧」(みすず書房)と、ジョージ・シュタイナーの評論を数冊。
原爆体験の日本は、せめてこれらを教科書に載せるぐらいの平和意識は持っていい筈です。
何故、ミシャエルはナチズムの旅をするのか?監督インタビューで、この映画のテーマをこう答えています。
「原作のどんなところに興味を持ったのでしょうか?」
『ラブストーリーであると同時に戦後のドイツを描いている点だ。実際に戦争を戦った世代ではなく、
戦争が次の世代にどんな影響を与えたかというのがテーマだからね。僕個人としてもとても興味があるテーマだ』と。
ハンナが教会の火災のときに囚人を外へ非難させ逃がさなかった弁明した。
ハンナは、この無意識の「悪」の論理について、裁判で次のように抗弁する。
『私たちはどうやってまた秩序をもたらせばよかったのでしようか?きっと大混乱になって、私たちは収めきれません。
私たちには、囚人をみすみす逃がすことはできませんでした!私たちには責任がありました』
しかし、これが残念ながら戦争中の普通の市民の意識なのです。
最後に第四点は。何故に、ハンナは朗読させるのか?単に文学に興味があって、
文盲を恥じて隠すためだけで、他人に朗読を求めたのだろうか?
映画でも小説でも、ハンナの過去の生い立ちも、家族の事も家系も明かにされていません。
それでも大変好奇心が強く、文化への関心も高く、こんなに知識欲が旺盛で魅力的な女性はめったにいません。
むしろ、ハンナは謎に包まれた女性というべきです。
小説では、彼女はジーベンベルゲンで育ち、17歳のときベルリンに来て、ジーメンスの労働者になり、
21歳で軍隊に勤め、どんな両親か、どんな兄弟がいるのか、ベルリンでどんな暮らしをしていたか、
軍隊でどんな任務をしていたか、彼女は教えてくれなかったと書いてあります。
彼女が貧しい田舎娘で、よい生活のために軍務に就き、収容所の看守であることを隠して逃げ回り、
自分が生き残るためにユダヤ人を殺し、車掌になって身を隠しとは考えにくい。
翻訳者の松永美穂さんの日本語は大変に美しいです。
訳者あとがきで、『ジョージ・シュタイナーは、この本を二度読むことを勧めている』と、書いてます。
一度読んだだけでは、登場人物の細かい感情が分からないということだそうです。