夜のハイウェイ沿いに浮かぶ親指。
彼女は、猫のようにしなやかに車内にすべり込んできた。
「ウフフ・・・ねえ殿方、いま私の頭の中にある映画のタイトル、当ててみる?」
《何をいきなり言い出すんだ、この女?》
「ヒントを教えてあげる。キャロル・ブーケ」
《ゼ、『007 ユア・アイズ・オンリー』か?》
「あら・・・意外とつまんないのね、あなた」
《じゃあ、『美しすぎて』ならどうだ》
「美は確かに優越だわ。でも醜悪であるのと同じくらい問題を引き起こすのよ」
《禅問答かい、レディ・・・クックックッ、いきなり初対面で怖がらせるのもどうかと思ったのでトボけていたが、俺は一筋縄ではいかない映画マニアなんだよ。さあ何が聞きたい!? ルイス・ブニュエルの『欲望のあいまいな対象』い、いや、ダニエル・シュミットの『デ・ジャ・ヴュ』!これでどうだ!! ハァ、ハァ、ハァ・・・》
「ウフフ・・・後の方はちょっと神秘的で悪くなかったわ。でもまだまだね」
《な・・・何だって!? 》
「キャロル・ブーケ、迫真の全裸体当たり演技」
《お・・・おおっ!! 》
「しかも、狂人の役。舞台は女だけの精神病院。放尿・暴行・腕の切断―」
《そ、その映画、知っている気がする・・・しかしタイトルが・・・》
「監督は、ヴェンダースやファスビンダー、シュミットと並ぶニュー・ジャーマン・シネマの―」
《ヴェルナー・シュレーターだ!し、しかしタイトルが思い出せない・・・》
「そう・・・愛や疑惑という強迫観念に捉われ、自ら病院に閉じ籠る事を願う女。精神病院を、激しい所有欲のメタファーとして捉えた映画」
《バ、『バンカーパレス・・・』いや違う、それはホテルが舞台の映画だ・・・》
「でも彼女は意思に反して、病院を放り出されてしまう・・・そして待っていたものは―」
その時、ヘッドライトの光芒の中に標識が浮かび上がり、流れさって往った。そこに書かれていたのは・・・
【注意!注意! 美しきヒッチハイカーは逃亡中の“異常者”の怖れあり!】
・・・な、何てことだ、この女は・・・!俺はバカだった。何という愚か者だ。
《レ、レディ・・・さっきから気になっていたんだが、あんた、シャネルのポスターに写っている女性にそっくりじゃないか?》
「あら、残念ながら―それは『他人のそら似』よ」
俺は思い出していた、そのタイトルを。しかし、その時彼女の貌にはもう・・・ぞっとするほど冷たく、美しい微笑が、ゆっくりと、広がっていくのを、俺は黙って横目で視ているしかなかった。そのタイトル。彼女が乗り込んできた時に、もう答えは出ていたのだ。まさに今の俺を言い当てている。愚かな俺。いや、愚かな俺たち。俺たちみんな。いまこの瞬間に・・・
そう、この『愚か者の日』に。