『悪霊』というと、やはり主人公のニコライ・スタヴローギンについて語られることが多いと思う。彼については「悪魔的超人」という評価が一般的だと思うが、わたしは「ニヒリズムの極致的存在」とも言えるのではないかと思う。
太宰治の『トカトントン』という小説がある。主人公(作者に対する“手紙の送り主”という設定になっている)が恋愛、政治的運動、その他もろもろのことに対して《これが自分の生きる道だ》と思った瞬間、どこからか“トカトントン”という金槌のような音が聞こえ、それを聞くと一瞬にしてその情熱が冷めてしまう、という話である。
これは、世界や自分の行動に何か《これだ》という価値を見出せない、見出したとしても一瞬にしてそれが実は虚像であるとわかってしまう、そんな《ニヒリズムの結果》を現したものである。
スタヴローギンの行動もこれといっしょである。彼は女性を愛することができない。政治的な運動に情熱を燃やすこともできない。むしろ、世界に対してなんらの《価値》をも見出せない。
<彼ら(ピョートル達)のもつ希望に対する羨望から、煮えくり返るような思いで眺めていたことをご存知だろうか?>
というスタヴローギンの独白があるとおり、スタヴローギンは何かに対して<希望>を持っている人々をうらやましいと思っていたのである。
詳しくは、アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』などを読むとさらに『悪霊』が理解できるだろう。合わせて、太宰治の作品(『斜陽』や『トカトントン』など)も読んでみると、ドストエフスキーの描きたかった<ニヒリズム>がわかるのではないかと思う。