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27 人中、22人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 2.0
どこが平易な訳?,
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レビュー対象商品: 悪霊〈1〉 (光文社古典新訳文庫) (文庫)
あの悪霊の新訳が出るということでわくわくして購入しましたが、正直期待外れでした。 平易な言葉を使って読みやすいというのが売りのはずなのに、文章の繋がりがおかしいために頻繁につっかかりました。特に会話文でその傾向が目立ち、他訳と比べて登場人物の個性と頭脳が鈍くなっているような印象を受けました。 時代がかった言葉を現代ふうに訳すのはいいと思うのですが、まくし立てるような文体まで変えてしまったら損なわれるものが大きすぎて、おまけの解説程度ではとても補えません。 とりあえずこれから悪霊を読む人には、手に入り易い新潮文庫か岩波文庫版をお勧めします。
5 人中、4人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 4.0
ぼくを苦しめてくれ,ぼくを罰してくれ,ぼくに憎しみをぶつけてくれ,
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レビュー対象商品: 悪霊〈1〉 (光文社古典新訳文庫) (文庫)
人生において必要なすべての要素が含まれると言われる「カラマーゾフの兄弟」は,あらゆる人に受け入れられるドストエフスキーの最高傑作だと言えましょうが,「悪霊」は,登場する人物すべてがとことん戯画化され,カーニバル的狂騒における各人の会話に翻弄されてしまうところがあり万人にお勧めできる作品ではないかも知れません。しかしながら,読み進めていくうちに,その戯画化された登場人物たちの内包する恐ろしさや心の闇がジワジワと染みいってくる奥深い作品だと言えるかも知れません。作品の冒頭に置かれた「悪霊どもはその人から出て,豚の中に入った。豚の群れは崖を下って湖になだれ込み溺れ死んだ」という「ルカによる福音書」の意味は,第3巻まで読み進めると分かってきますが,第1巻においては,まだその予兆の段階です。 物語はゆっくりとしたペースで語り始められますので,ひょっとしたら退屈になって読み止めてしまう人もいるかも知れません。しかし1巻後半あたりから俄然面白くなってきます。2巻における「スタブローギンの告白」での衝撃を,そして3巻では読み止めることが出来ない疾走感を味わうことが出来ます。そして,誰がなぜ殺人を犯し,誰がなぜ死ななければならなかったのか,すべてを読み終えた後に再び第1部「序に代えて」に戻ると,最初退屈だと思われた前半部分がぐっと面白く感じられるようになっています。 本作品において私が最も好きな場面は第3巻シャートフの妻の出産シーンです。本作品における最も希望に満ちあふれた場面です。それだけにその後の展開がとてつもなく恐ろしい。是非とも3巻まで読み通してください。 本書の構成について。 以前読んだ新潮文庫版では「スタブローギンの告白」の章が巻末の付録として収録されており,ラストのスタブローギンの行為が非常に唐突な感じを受けた記憶があります。本書では,第2部の本編に収録されており 「世間の人々の憎悪が自らの憎悪を掻き立てる。こちらも憎悪した方が,彼らから憐れみをかけられるより気が休まる。ぼくがそう願うのは謙虚な気持ちで耐えていたいからなんです」「ぼくは無限に苦しみをもとめているんです」 というスタブローギンの告白が, 第3部リザヴェータに対する 「ぼくを苦しめてくれ,ぼくを罰してくれ,ぼくに憎しみをぶつけてくれ」 という叫びになり,その自然な流れとしてラストシーンに繋がっており,この構成を選択したことは正解だと思われます。
6 人中、4人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 2.0
新訳の読みにくさ・文脈の誤読 ―ドストエフスキー・ファンの願い―,
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レビュー対象商品: 悪霊〈1〉 (光文社古典新訳文庫) (文庫)
『カラマーゾフの兄弟』、『罪と罰』と同様、この新訳にも読みにくさを感じた。「読みにくい」というのはストーリーのことではない。その背後にある心理と論理の流れ、つまり、文脈のことである。新潮文庫の江川訳と比較して一例を挙げてみたい。マリヤがスタヴローギンを迎える場面で、語り手の「私」はこう述べている。まずは、亀山訳(p.440): 「ある瞬間における、その場にいあわせた人びとの表情を描写するのはなかなか難しい。たとえば、驚きのあまり茫然自失しているマリヤが、彼を迎えようと立ち上がり、まるで哀願するかのように両手を合わせたのをはっきりと記憶している。と同時に、彼女のまなざしのなかに、歓喜の色が、なかば狂気じみた歓喜の色が浮かびあがり、その顔がくしゃくしゃになったのを覚えている。それは、どんな人間でも容易には耐えがたいほどの歓喜だった。それはことによると、その両方、つまり驚きと歓喜の二つだったのかもしれない。」 続いて、江川訳(p.350): 「ある種の瞬間における人間の顔つきを描写するのはきわめて困難なことである。たとえば私は、マリヤが驚愕のあまりうつけたようになりながら、彼を迎えて立ちあがり、まるで懇願でもするように両手を組み合わせたのをはっきりと記憶しているが、と同時に私は、彼女の眼差しに歓喜が、何か気違いじみた歓喜が、彼女の顔をくしゃくしゃにしかねないほどの歓喜が、人間にはとても耐えきれないほどの歓喜が浮かんだことも思い出すのである。おそらくそのどちらもが、つまり驚愕と歓喜の双方があったのだろう。」 これは日本語として文脈が読みにくいケースだが、それだけではない。新訳には、訳者がそもそも文脈を誤読しているケースもかなりある。それが誤訳につながる。これも一例を挙げてみたい。ステパンの物語詩が外国の革命的な文集に知らぬ間に掲載された時の当人の反応を描写する箇所である。 「外国から送られてきたその文集を手にした彼は(……)毎日どこからか祝電のようなものが送られてくるのを待ちわびながら、そのくせ人を見下すような外面を装っていた。祝電は一通も送られてこなかった。そこでようやくわたしと仲直りしたわけだが…」(亀山訳p.22) この「祝電」が誤訳であることは、文脈から見て取れる。 そもそもステパンは、「反体制の進歩的知識人」であることに自分の存在意義を見いだしている人物である。この件も同様で、彼が待っていたのも当然、その証しとなる電報、つまり、弾圧の危険等を警告する類の電報のはずである。従って、ここに「祝電」などという言葉が使われているはずがなく、原文に単に「電報」とあったのを訳者が思い込みで「祝電」と「意訳」したと推測がつく。実際、Web上の原文を見ると、単に「電報」と書かれているだけであり、江川訳ほか先行訳でもむろんそのまま「電報」と訳されている。これなら一読して、待っていたのは急を要する知らせと察しがつく。一方、亀山訳を信じて読んだ場合、この間の脈絡が不明となるだけでなく、ステパンの心理と人物像の理解にも支障をきたすのではないか。 誤訳は誰しもテキストを読み違えて生じるのであろうが、このケースは、単に文脈(心理と論理)を誤読したばかりでなく、その誤読に基づいてテキストを改変までして誤訳となってしまっているわけで、問題は大きい。(因みに、最初の亀山訳引用1行目の「その場にいあわせた」も訳者の勝手な付け足しである。) 以上のように、今回の新訳も残念ながら誤訳(恣意訳)その他の不備が多く、総じて文脈が読みにくいと感じられた。 ともあれ訳者は今回のブームの立役者である。だからこそ、メディアの近視眼的商業主義に乗らず、まずは大量誤訳を指摘されている『カラマーゾフの兄弟』に立ち戻り、これを徹底的に改訂するところから再出発していただきたい。――読者のためにも、そして何よりドストエフスキーのためにも。 以上、僭越・非礼ながら、一愛読者の思いを書かせて頂きました。(2011/12/20 削除につき再投稿)
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