この著者は確かに「我が落ちる」という体験しているでしょう。
「私」という主語なしに「現象」のみある「無我」という境涯を自身の言葉で必死に表現しようとしています。
そのことにはとても好感がもてます。
ただ、自身の修行法により偶然「無我」を体現してしまったため(「無我」を悟る瞬間とはそういうものですが)悟るための正しい法というものが語れずにいるのがもどかしげに感じます。
既成の仏教などへの強い批判はほとんど間違っていません。現代仏教(他の世界宗教も含めて)は人の心に響かなくなっているし、人を救えなくなっているという批判はほぼ正しいと思います。
ただ、著者ご自身もまた人を救うための正しい道標の提示できていません。正しい師について修行したものではないために「無我」はわかるが、「無我」へ導けないのです。
上述しましたように著者の既成宗教批判は悲痛な声です。
ただ、極一部ではありますが、出家した弟子や居士(在家の修行者)を「無我」に導こうとする師家の方がおられることを私は存じていますし、そういう師のもとで必死に修行するものがいる事実も知っています。
著者の「禅僧は山にこもって何もしようとしない」というような表現や「長く坐禅して得る神秘体験は悟り」ではないという禅批判を悲しく思いますし、その点は取材不足であるなと思います。
たしかに多くの仏教僧は職業としての僧侶です。禅による魔境(神秘体験)は悟りとは無縁であるのも事実であります。ただ、禅では悟れないように聞こえてしまう表現は残念に思います。
「長く坐って悟る人」もおりますし、「転けた拍子に悟る人」もいるのです。
問題はやっていることが何かではなく、どうやっているか、一心にやっているか、一心が無心になるまで擦り切れるほどやっているかなのです。「坐ってるか」や「歩いてるか」は関係ありません。
著者が「無我」を悟ったら、なすべきは導けないものを批判することではなく(それも言うべきですが)自ら導くことです。
さて、問題は著者が他者を「悟り」に導けるかです。
本当に導ける人は「悟り系」などという概念を持ち出したりしないはずです。あるのは「闇」か「光」かどちらかです。薄らとでも見えたならそこに「闇」はありません。
「悟り」も同様。「悟っている」か「未だ悟っていないか」のどちらかです。
ちょっと我を張ってる自分に気付いて「悟り系」で行きましょうでは「悟り」には導けないのです。
それゆえ、著者がこの著作の後半で挙げている三人の人物はクリシュナムルティはともかくとして、他のかたは悟ったかたではありません。
私はその方たちを批判しているでもなく、嫌いだと申しているのでもありません。とても興味深い著書を書かれたり、パフォーマンスをする方です。しかし「悟ってはいません」
そういう方を「悟り系」という架空の自作のカテゴリーで語ってしまうことが著者の修行者として現時点における限界であり、他者を本当の「無我」に導けない要因なのです。
「悟った」体験を語ることは悪くありません。
ただ、その体験に他者を導く術を知らないがゆえに、架空の道をこしらえてはいけません。
それでは人はもっと迷いかねないのです。「私は他人よりも我を張らない良い人間」だという「我」を強化しかねないのです。それでは遠回りさせるだけなのです。
この方の境涯を認めた上で、本当に人を導ける正しい道を探って欲しいものだと思います。