ツォンカパ師の『道次第大論』の重要性は、古くから知られていて、すでに戦前の日本でも着手されていたらしい。長尾雅人さんの翻訳もその成果の一部だという。今回のは、『道次第大論』よりツォンカパ師が晩年に約二分の一程度に要約した『道次第小論』(ラムリム・チュンワ)の全訳だ。この世界的な名著が日本語で読めるようになったのは、うれしい。翻訳は古典の翻訳や研究にふさわしい丁寧なもの。翻訳者自身ももとゲルク派の学僧であり、亡命先では非常時ということもあって、若い僧侶でありながら、チベット国内ではとてもお会いできないような最高クラスのお師匠さんたちから、この伝統を受けた、という。1950年代60年代ということもあって、苦労が多かったようだ。それに、ゲルク派の『道次第論』講義の伝統を伝える割注を丁寧に見ているので、でまかせの部分がない。訳註はたぶん、研究者以外に必要ないだろうが、細かく調べている。ツォンカパ師の著述は、インド大乗仏教が教えた輪廻の苦、業果、四聖諦、利他の菩提心と六波羅蜜の実践などの内容を、忠実に継承している(輪廻の苦、業果、四聖諦といったところは仏教全体に共通した内容だ)。マイトレーヤやアビダルマのテキストなんて哲学書だとの印象が強かったが、このように教えられているのを見ると不思議な感じがする。もちろん中道思想は独特で深い。平易な部分でも分析は緻密だ。初心者にはきついが、考えさせらる内容が多い。
翻訳用語の問題はどうだろうか。知人の話では、この翻訳は平易な文章になっているが、伝統的な術語を多用しているで、その点、分かりにくい。確かに見慣れなくて難しそうな単語が並んでいると、初心者は読む気が失せてしまう。でも、仏教語はもともと、はるか異国で時代も遠く離れた古代インドから来て、漢訳の伝統ができた。それらにはアビダルマなどに出ているような定義や意味合いがある。今の学者さんたちは、それらをすべて切り捨てて現代語にしているので親しみやすいが、そこには罠もある。その言葉や概念への理解が深まらない。現代の言葉や概念に引きずられて、勘違いも起こってくる。結局、初心者用に留まってしまう。そういう現代語訳や高僧がたの講話録などに親しんだ上で、もっと正確に知りたいときになって、この本に取り組むと困難が少ないし、価値が出てくるのではないか。ツォンカパ師も本著で、仏道を学ぼうとする人は良いお師匠さんから学ぶことが必要不可欠だ、と言っている。また、翻訳者によると、チベットでも在家の人はもちろん出家した僧侶でも、ふつうの人は日常勤行集ですませていて、こんな大著を丁寧に読んだり教えられる機会は少ない。仏教語の正確な意味もすぐれた学僧以外のほとんどの人は知らない、という。本書についても初心者は独力で学ぶのもいいが、仏教の知識が豊富でしかも善良な先生に就いて学ぶか、関心を共有する友達と一緒に学ぶのがいい。よい出会いがあるといいと思う。ついでに、興味深い話だが、ナーガールジュナの中論やそれに対するチャンドラキールティの註釈の日本語訳は、伝統的な漢訳仏教語を多用した古い山口益訳、すべて現代語に置き換えた新しい翻訳などがある。私たちは新しい翻訳のほうが読みやすいと思いがちだが、東アジアの仏教を知り日本語の読める欧米人の研究者にとっては、「古くさい」山口益訳は読むことができるのに、現代語に置き換えた新しい翻訳は読めない、という。これは、「古くさい」伝統用語が実はシナ、朝鮮、日本など漢訳仏教圏の長い時代の共通語であって、地理的、歴史的に普遍性を持っているからだ。この翻訳者は、『道次第大論』(ラムリム・チェンモ)の翻訳もやっていて、成田山の雑誌にその一部を発表している。早くまとめて出版してほしいものだ。