禅の瞑想が捨てがたいという大学時代の同級生がいる。
「同じ仏教だから到達点は同じや」という発言に答えられなかった。
ところが今回、藤本博士の「悟りの階梯」に答えがあった。
『止(サマタ)瞑想と観(ヴィパッサナー)瞑想の違い:p130〜』のところで、
『生滅を繰り返しているのだけど実体としてあるかのように見える現象をしっかり捉え、その滅する瞬間を見極めて無常を「体験」するのが、悟るための観瞑想。「ずーっとそこにある(はずの)一つの対象」に心を集中し続けて現世の超越的な楽を得るのが、禅定のための止瞑想。観瞑想と止瞑想は、本来、水と油のように異なる瞑想なのです。禅定と悟りも、別ものです。禅定は、心が物質的な束縛を離れて味わう超越的な、しかし現世での心の楽です。悟りは、滅の瞬間の、何ものにも触れない寂静です。』とある。
・・・・なるほど・・
また『外見的には似ている止瞑想と観瞑想:p133〜』で、
『観瞑想に熟練すると、日常の生活すべてをいつもしっかり観察しながらおこなう「生活を丸ごと観察する」二十四時間の「瞑想」もできるようになります。
止瞑想は、座って背筋を伸ばして身体を固定してから、自分が何か一つの対象を決めて、それ一つだけに心を徹底的に集中させます。・・・・ですから止瞑想では、座る瞑想だけをします。・・・・・そのまま日常生活に戻るのは無理です。立ち上がる前に禅定状態から日常の心に戻らなければいけません。日常生活をしながら止瞑想することも出来ません』
だから心の進歩が出来ないんだ。だから彼らはわれわれ凡人と同じ事をする。
何年経っても悟れないわけだ。 納得。
といっても「止瞑想」は要らないというのではなさそうであるが、少なくても私のような「初級の悟り」を目指すものには「二十四時間体制の観瞑想」が必要なようである。
「心」が今何を求めたか、「欲」か「怒り」か「無知(痴)」かを常に観察することが必要に思う。それによって心は進歩するのだと思う。