かつて松本清張は、現代における菊池寛の評価が不当なまでに低いことに憤りを覚える−と、語ったことがありました。 “芸術よりも生活が大事”と言った菊池に、生活人としての辛酸をなめてから作家になった松本は共感するところが多かったのでしょう。 松本もまたその長い作家生活の中で、スーパー名探偵やレトリック重視の推理作品を書こうとはしませんでした。
この作品集に収められている数々の物語は、いわゆるおしゃれで華麗な−といった形容とは無縁のものばかりです。 非凡ではあってもけっして天才などとはいえない普通の人間たちが、人生でぶつかる運命的な出来事−そのとき彼らはどういう決断を下し、その結果どうなったか、というストイックな内容のものが多いです。 全体的に見ると、あくまでも誠実に生きようとした主人公たちは人生の喜びを見つけることに成功しますが(“恩讐の彼方に” “俊寛”など)不道徳で安易な道を採った者や自暴自棄に陥った者達は不本意な結果を迎えます(“忠直卿行上記” “藤十郎の恋” “入れ札”など)。 また、二人の己の信念に忠実な男たちが直面せざるを得ない苦い結末“蘭学事始”という佳作も見落とせません。 これは確か昔、中学校の国語の教科書にも載っていたと思います。
決して“珠玉の名品集”などという呼び方は似合いませんが、ゴツゴツと武骨でありながらも不思議なやさしさを感じさせる優れた短編集です。 短くても密度の濃い小説を探している方には最適です。