以前から、ジョセフ・ロージーについて感じていた事がある。実は様式美の世界を描かせたら、とてつもなく巧いのではないか、と。
まさにその答えが本作『恋』。'71年カンヌでグランプリを受賞した作品だ。
舞台は1900年。20世紀の入り口と言いつつも、ヴィクトリア朝の最末期。見紛う事なきヴィクトリアン・ロマンの世界を舞台に、少年期の恋と哀しい人間ドラマが描かれる。
原作は「無名の文豪」と呼ばれる、L.P.ハートレー。「神経症的」な人物描写を特色とする作家と言われ、原題は「The Go-Between」。これは「仲介者」と同時に「代弁者」いう意味で、邦題の『恋』よりも複雑な意味が込められている。
12歳の主人公、レオ(ドミニク・ガード)は、夏休みを学友のマーカスの豪邸で過ごしていた。イングランド東部・ノーフォーク州の広大な田園地帯に建つ豪壮な館。レオはそこで、マーカスの美しい姉・マリアン(ジュリー・クリスティー)と出会う。彼女に淡い恋心を抱くレオ。しかし、マリアンには身分を超えた禁断の恋の相手がいた。小作人のテッド(アラン・ベイツ)である。マリアンは、レオの自分への想いに気づきつつも、テッドと手紙のやりとりをする「仲介者」をレオに頼む。レオは、それが恋文だと気付きもせず、マリアンの役にたてると、喜んで引き受ける。
やがてレオは、館の新しい客・トリミンガム子爵(エドワード・フォックス)と知り合う。戦争で顔に傷を負い、ニヒリスティックに振舞いながらも、騎士道精神を尊ぶ子爵に、レオは好意を寄せる。そして、粗野で無教養ながらも、男らしく温かみのあるテッドにもまた、一種の憧れを抱くようになってゆくが・・・ある時、レオはマリアンに託された手紙をふと開いてしまい、その中身を知って衝撃を受ける。失恋、そして許されぬ恋の仲立ちを自分がしていた事へのショックに少年は困惑する。そんな中、トリミンガム子爵とマリアンの婚約が決まる。それでもマリアンは、レオに手紙の仲介役を頼もうとする・・・。
あれから50年以上の歳月が過ぎ、甘酸っぱく、ほろ苦い少年時代の想い出を胸に、レオは再びあの館に向かっていた。あの夏の日に、何があったのか・・・そして館で待つ、年老いたマリアンはなぜレオを呼んだのか?
まず言いたいのは、この映画はとにかく「美しい」。冒頭のタイトルバックの、水滴に光る窓ガラスの映像から、何か予感めいたものを感じる。そして、逆光の中で黄金色に輝く畑と、緑の木々の中をゆく一頭の馬車・・・。徹底してオール・ロケにこだわった建造物の存在感。館をとりまく自然の風景。そこに重なる、ミッシェル・ルグランの心かき乱すような美しい美しい旋律。
絶品というほかない。
『パリの灯は遠く』を観た時、ロージーの構図の巧さに感銘を受けたものだが、本作はジョセフ・ロージーという監督が持つ、スタイリッシュな才能を最大限まで引き出した作品、といえるのではないだろうか。ロージー映画の多くは、人間ドラマ ― 心の暗部を抉り出すような描写に、重点が置かれる。この映画でも、もちろん人間の複雑で混沌とした心が描かれる。ジュリー・クリスティー演じる、これまた美しいヒロイン・マリアンは、単なる「憧れのきれいなお姉さん」ではない。女性の残酷さを併せ持ったキャラクターである。手紙の仲介役をレオが断ろうとすると、百年の恋も冷めてしまうようなもの凄い罵声を少年に浴びせる。「お金が欲しいの?それなら、あげるわよ!」
こうした思春期ものには必ず「恋」と「友情」の狭間で苦悩する心が描かれるが、少年レオの心もまた、ひと夏の残酷な体験の中で、揺れる。トリミンガム子爵にレオは訴える ― 「妻が不貞を働いても、決闘するのは夫と愛人、いつも男だ。なぜ?不公平だよ」と。
ロージーは語る。「人間というものは、その奥底は純真なものであり、彼らはしばしば、彼らの生活状況によって腐敗するのだ」と。
そして「腐敗ということは、人々が自分のものでない思考で生きることに甘んじることから生じる。最悪の腐敗は、抗議することを止めてしまった人たち、あきらめなのだ」と。
このヴィクトリアン・ロマンに、ロージーが託したメッセージは。なぜ50年後(厳密には、ドラマの大部分が回想シーン、という設定なのだが)のレオが登場する事になるのか。この言葉が、映画のラストシーンを読み解くキーワードになるのかも知れない。
その美しさゆえに、哀しみと苦さが際立つこの映画、これこそDVDで観たいではないか!