主人公の守田一郎はうだつの上がらない大学院生。大学教授の命令により、京都の大学から能登の研究所に移ることになり、能登から京都の大事な(口には出さないが)友人達への文通がはじまる。書簡体形式を用いて、主人公守田一郎の視点で奇妙な友人達(友人の中には森見登美彦さんも登場する)の動向や、守田一郎のひねくれた想いが手紙に綴られる。
守田一郎は男そのものだと思う。それはもちろん一本気だとか、言葉に二言はない、とか逞しい容貌ということではない。シャイで手紙の中でしか強くない、小狡い、いやらしい、さびしがりや、意外と真面目、無駄にプライドが高い、とにかく不器用。こういうところが男だと思う。
恋文代筆のベンチャー企業を立ち上げるためだ
と煙をまかないと、文通すらできない。なんとも男らしい。
いざ文通しても、相手が男女問わず、結局言葉の悪ふざけに終始し本当の気持ちを伝えられない。この悪ふざけ・パロディが本書の魅力で一定以上の年齢の方は読んでいてクスクス笑いが止まらないだろう。いたるところに盛り込まれている悪ふざけ・パロディは森見登美彦さんが腕によりをかけて読者にサービスしてくれたものだ。阿呆の手紙なので、難しい顔をせずに阿呆になって楽しむべきだ。手紙毎に趣向を凝らした署名、宛て名も堪能すべき。
しかし、いざ本音を手紙で語る必要が出たとき男守田一郎は懊悩を深める
何遍も何遍も恋文を書いては破き、書いては破いているうちに、俺は文章というものが何なのか分からなくなってきました。「文章を書く」という行為には、たくさんの罠がひそんでいる。俺たちは自分の想いを伝えるために文章を書くというように言われます。だがしかし、そこに現れた文字の並びは、本当に俺の想いなのか?そんなことを、誰がどうやって保証するのか。書いた当人だって保証できるかどうか分からない。自分の書いた文章に騙されているだけかもしれない。じいっと考えては書き考えては書きしていると、不思議でならなくなってくるのです。自分の想いを文章に託しているのか、それとも書いた文章によって想いを捏造しているのか。
本音を伝えることの恥ずかしさや、気持ちを受け入れてもらえ無かったらどうしようという男の情けなさ。けれど、このあたりから手紙に透明感が増し読む私達はいじらしい気持ちになる。「いじらしい気持ち」、この複雑な感情を正しく表現することは携帯メールで可能だろうか。長文や、何通もの携帯メールを重ねれば可能かもしれないが、それは野暮だ。
紙と黒いインクしか用いることが出来ない、情報伝達の手段としては極めて貧弱な手紙こそがこそばゆいような、いじらしい気持ちを伝えるには最適なのだろう。何より、想像力を喚起する力に優れている。
すべての手紙を読み終えたとき、手紙に登場した人物達全員が愛おしく、自分の過去の分身達のように思えた。メール一本で事足りることを筆やペンを動かし、数十分と配達時間プラス送料を使って好きな人達に気持ち伝える。当たり前のことだけど、実はかけがえの無い大事な時間の使い方なのかもしれない。